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  1/10 ツーリングカー プレワールド ブラジル 2004年





 私の最初で最後のGPカーの製作、そしてレース参加となったマシンです


 2003年夏、突然会社から通達があり来年(2004年)に第一回1/10
 GPツーリンガカーの世界選手権がブラジルで開催されるという話が持ち上がり
 ヨコモとしてこれに参加をしたいとの事。

 当然、私の方に開発要請があったが、私はGPカーは全く経験も無く知識も無い
 為に拒否をした。 しかもその予選は今年の全日本選手権が兼ねられており、
 TOP10の選手のみが世界選手権に参加する事が出来るという。

 そしてその全日本選手権は1/10オフロード世界選手権の日程と重なっている。
 そうするとオフの世界選手権は参加する事が出来ない。私はこの日の為に、MX−4
 のニューマシンを開発してきた。しかし会社の判断は、オフの世界選手権を棄権して
 GPに賭けると言う事だった。

 これで私は兼ねてより考えていた退社を決断した。 近年会社としてはレースでの
 重要性が少なくなり、私の気力も熱意も薄れていた。 そして10月の一里野での
 ツーリングの全日本選手権を最後に退社する事となり、関係各社にも通達した。

 正美は、夏より他の開発メンバーと共にGPカーのテストを行っていた。私は全く手を
 出さず静観していた。 そしてツーリング(SD)の最終モデルの製作に専念していた。
 もう最後のレースとなる為に、やりたい事をやってみようと、ゴールドSDを製作した。
 正美のGPの進行状況を聞くと、まあまあ何とかなりそうだ、と言う。

 GPの全日本選手権は、ツーリングの全日本選手権の2週間後となる。
 もうこの時は、私は退社している事になる。

 そしてツーリング全日本選手権では、予定通りTQ、優勝が出来、有終の美を
 飾ることが出来、思い残す事無く引退出来ると思った。
 
 しかしここで正美から泣きが入った。GPの方は最初の頃は有力選手達も本腰を
 入れていなかったのか、正美が速かったようだが、レースが近づくにつれワークス陣は
 大変速くなってきて、このままでは予選通過は難しいと思うと言ってきた。

 そして、もう一度だけ今回の全日本選手権で予選だけ通過出来る様に手を
 貸して欲しいと言う。ここで予選落ちしてしまえば、すべてが水の泡となってしまう。
 私はその方が会社の為になるとは思ったが、正美の立場が無くなると思い、この
 レースだけ最後に正美を助け、何とか予選を通しシード権を獲ろうと引き受けた。

 しかし時間が無い、すぐに現在使用しているマシンをチェックした。一から製作する
 時間も無かった為に、ムゲン車をベースに使用していた。私はGPカーを見るのは
 殆ど始めてだが、EPカーとは、かなり違っている、よく分からないが、EPでは考え
 られないシステムをとっている。

 私はEPのノウハウを取り入れて出来るだけの事をしようと考えた。そして会場となる
 サーキットへ通い、セッティングと改造をした。大きな改造は出来ない為に、サスの
 ジオメトリーの変化等に重点を置き、現場から会社に電話で連絡ををしながらパーツ
 やショックタワー等を製作し直ぐに送って貰らい、翌日には入手出来、テストが出来ると
 いう方法で多くのパーツを製作し、何とか煮詰め本番を迎えた。

 
 レースでは、我々はGPレースは始めてなので、スタート方式や給油等でかなり戸
 惑ったが、だんだんとなれていき、正美も本来の走行が出来る様になり、予選は2位
 となり、決勝はシードされる事となり、これで本来の目的のシード権を獲得した。

 決勝では福田選手とトップ争いをして優勝の可能性も見えてきたが、後半にベルトが
 切れ敗退。私の読みが甘く、ベルトは決勝の一時間は待たなかった。 これはGPでは
 常識だと後で聞いた。

 これで一応目的は達成し私の仕事は終わったが、どうも腹の虫が納まらず、またこのまま
 正美達が開発しても絶対に勝ち目は無いと思った私は、じゃあもう一度だけ挑戦して
 みるか? と会社に1年退社を延ばし世界選手権に挑戦してから退社する事提案した。

 そして来年2月には現地でプレワールドが開催される。それまでにニューマシンを製作し
 レースに参加する事に決定。しかしほぼ2ヶ月しかない中で殆ど一からの製作となり、
 開発スタッフも正月返上で頑張ってくれた。
 
 殆どのメーカーは、GPカーメーカーで、1/8等のノウハウを活かした設計のマシンだった
 が、私はEPベースのマシンを製作した。 GPカーは重心が高い為にハイサイドを起し
 やすい。私は重心を下げる事に重点を置き、またサスの取り回しに工夫し、他車より
 ハイサイドがおき難いマシンを目指した。

 一番の特徴はエンジンを傾斜させた事た。 エンジンのヘッドが大きい為に傾斜をさせて
 低くするだけでかなりの違いがでた。 エンジンに関しては、JP社がサポートしてくれる。
 そして傾斜について相談をした所、キャブの位置だけ気をつければ、横に置いても丈夫
 といわれた。

 そして少しずつ傾斜を増やしテストをした。 勿論これらのプロトは極秘の為に目立た
 ないTOMYサーキットでテストをさせてもらった。

 2004年2月 たった一台のプロトマシンと共にブラジルへ向った。


 
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 非常に短期間で、ほぼ一から製作したプロトマシン。最初はFRPで製作。
 殆どのテストは、群馬県のTOMYサーキットで行った





 ムゲンベースのテスト車


 2月20日 成田空港に向い出発。


 ボディは何が良いのか? 分からないので沢山持ち込み。


 地球の裏側までの長いフライト。直行便は無い、まずは腹ごしらえ。




 レースコースはまだオープンされていない為に、近くのコースでテスト。




 マネージャーは、アメリカより強運のミユキさん。




 突然、雨が!


 2月というのにTシャツ。 こちらは真夏。


 ブラジルでも結構有名。






 マックは何処の国でもありそう。


 まずはやはり、日本食です。








 雨が続き、テストは室内コースにて。 少し狭いが我々には十分テストは可能。








 白いサスアームのプロト、かなり目立つが今はまだあまり見せたく無い。










 最強マネージャーの監視の下、仕事に励む。
 ミユキマネジャーは1997年から、4回世界選手権のマネージャーをしてくれて
 いるが、彼女がマネージャーの時は100%チャンピオンを獲得。


 息抜きにカートに挑戦!






 コースがオープン、練習走行が始まった。










 ピットも増え、どんどん選手達もやってくる。






 大変綺麗で大きなコースです。




 電動には無い、ピットレーン。


 チームマネジャーミーティングが始まり、練習走行が開始される。




 見慣れた顔も...




 2月26日、今日は正美の誕生日、有志でコースにてミニパーティー。
















 いよいよレースの開始となる。




 オープニングセレモニー。












 そして、長いレースの開始。 大変多い観客にびっくり。












 夜には恒例のバンケット、皆陽気で大騒ぎ。








 そして決勝日。 GPレースはEPと違って。予選の1、2位は決勝へ直接シード。
 他は、各メインで勝ち上がりとなる。 その為に予選で順位が悪くてもAメインに
 上がれる可能性はある。 ただ殆ど連続して勝ち上がって行かないとダメで大変だ。

 今回は、正美は予選2位で決勝進出の為、勝ち上がりはしなくて良い。

 そして、1時間の決勝レースがスタート。 大変調子良くトップを走る。
 正美特有の省エネ走法で、他の選手より1周位給油タイミングを遅らす事が
 出来る。 ピットワークもだんだんとなれてスムーズ行える様になって来た。
 レースも50分を過ぎ、もう少しと言う所でマシンの挙動がおかしくなって来た。
 受信機バッテリーの電源がなくなって来たようだ。 止む無くその後リタイアとなった。

 これも私の設定ミスで、軽量化の為に、容量の小さいバッテリーを搭載していた。
 テストでは1時間が十分に走行できたが、レースでは決勝前に少しの練習、そして
 ウオーミングラン等レース前にかなり走行する事になった。その為に想定以上に
 バッテリーを消費し、最後まで持たなくなってしまった。

 残念ながら、優勝は逃したが、予選や決勝での走行状態は十分に満足出来る
 手ごたえを得ることが出来、我々は満足した。
















 表彰式が行われた。




 たった一台のプロトタイプ、パーツの少ない中大変多くの走行に耐え、走り抜いて
 くれた、プロトマシン、結構大きなクラッシュもあったが、破損パーツは殆ど無かった。




 翌日、数チームが残り、テスト走行を行った。




 コースグリップを上げる為に、トラクション剤を撒く正美。




 渋滞の中、帰国の途へ...




 ミユキマネジャーはロスへ、我々は日本へ、お疲れ様でした!


 かくして、私達のGPカーチャレンジの第一弾は終了した。予想以上の検討で
 本戦への自信となった。 帰国後はさらに改良を加え、本戦用に向って開発を
 進めて行く、計画を練りながら長い空の旅となった。


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 そして帰国後、我々は今回の健闘を褒めてもらえると思っていたが、意外な
 指示が返って来た。 GPカーの開発を一時停止をして欲しいとの事だった。
 理由は、これまでも大変な費用が掛かっているし、またこれからも相当の費用を
 要する事が予想される。 
 またGPツーリングも思った程、注目を浴びないと言う事。 そして会社としては、
 これからは、ドリフトに力を入れたいとの事。

 何?? 私は愕然としたが、それが会社の方針なら仕方無い。最終的な結論が
 出るまで保留します。 と答え、待機。

 その後一ヶ月、二ヶ月が経ち、私の再三の問いかけにも、もう少し時間が欲しいとの
 回答。 私はもう半分以上無理だとは感じていたが、はっきりと聞くまでは動けない。

 そして、7月もう限界と、私は結論が欲しいと申し出た。止めるのは何時でも出来るが、
 世界選手権に参加するなら、もう3ヶ月しかない、ここで結論が出なければ、もう無理。

 そして、会議が行われ、結局は世界選手権には参加しないと決まった。 私はその場で
 退社を決断した。 会社はツーリングの世界選手権に参加をして欲しいとの要望だったが、
 私には、もうその気力など全く無くすべて断った。

 私は直ぐに退社の要望をしたが、残務や引継ぎがある為に9月末まで公表をしないで
 欲しいとの事。そして正美には、後任に4名のメカニックを用意するのでツーリングのプレに
 のみ行って欲しいとの事で、これだけは正美の為にと了解した。

 そして9月末一般に私の退社を発表した。 その直後KYOSHOの会長より連絡を
 頂き、面談。 色々なお話を頂ましたが、とりあえず10月のブラジルでのGPツーリング
 の世界選手権にKYOSHOのマネジャーとして行って欲しいとの要望。

 私達が、狙っていたそのレースにライバルチームのマネージャy−として行く? 何か非常に
 複雑な心境だったが、今までこれだけを目指して頑張って来たので、状況は変っても
 参加するのは、良いかも知れないと思い、承諾し再度ブラジルは向った。




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