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廣坂物語

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廣坂 物語
History of the Hirosaka family and Masami.
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−110
2001年より、原篤志選手がヨコモを退社した為に正美はレースを
続行する事となった。
そして2月にマレーシア、3月ストック選手権、4月にはLRPレースと
ツーリングカーレースに参加してきた。
今年はオフロードの世界選手権が南アフリカで開催される為に前回の
雪辱を晴らすべく新しいマシンの開発を続けてきた。
そして6月には南アフリカでのプレワールドに参加する事となった。
2001年 LRP ツーリング マスターズ




































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オフロード世界選手権に向って。
そして次は、2001年の南アフリカでのオフロード世界選手権だ、前回の
雪辱を果たす為にMX−4を再度一から見直し、プロトタイプの製作に入った。
約10ヶ月の間に12種のマシンを製作しテストをした。






プロト−1は、ほぼMX−4でシャーシを少し変更しFRPで作成。


NO−2 モーターをMIDに配置。


NO−3


NO−4 モーター位置を色々変更。


NO−5


NO−6 シャーシがほぼ決まり、ダンパーやダンパーステーを製作。


NO−7 シャーシをカーボンでテスト。


試作最終型となったパーツ類。 これから本格的な走行テストを開始。


















2001年 オフロード プレワールド (南アフリカ)
2001年 オフロード世界選手権 前哨戦 南アフリカ
2001年10月に開催される世界選手権の前哨戦が6月南アフリカにて
開催された。 南半球の為季節は日本と逆で冬の為大変寒い中での
レースとなった。
2WDは、RC−10B3

レースでは、2WD、4WDともに優勝し、世界選手権への足がかりとなった。

コースはインドアで1周30秒近くかかる広大なコース。


2WDは正美はディフェンヂングチャンプ

4WDはユカ ステナリがディフェンディングチャンプ
やはり、二人の戦いとなった。

プレトリアの市街


プレワールド 参加
そして6月、10月に開催予定の世界選手権が行われる南アフリカでの
プレワールドに参加する事となった。
マシンもほぼ満足が出来るものが完成し、現地での最終テストとなった。
レースは予想通り、前回フィンランドの覇者のユカ・ステナリと激戦となったが、
正美のTQ、優勝となった。 今回のコースは前回と同じ様にジャンプが勝負と
なった。 長いストレートの終わりに5連ジャンプがあり、これを一回で飛べるか?
勝負の分かれ道となった。 殆どの選手は2回で飛ぶが、正美とユカ選手のみが
一回で飛び、この成功率が勝負の決め手となった。 MX−4プロトは上手く
飛んでくれた。

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アメリカへ最終テストに..
そして9月には、アソシのドライバーと合同テストをするためにロサンゼルスに向った。
同時期には1/12の全日本選手権が開催されたが、こちらは参加は見送った。
そして、アメリカへ向う途中でここでとんでもない事態に...
アメリカ ロスへの空路、ロスへは何度も行っているが、時差の関係で日本を夕方
に出発しロスには朝の到着になる為に、睡眠が取れない。
約10時間の飛行でぐっすりと眠り、機は着陸態勢に、ああやっと着いたと思い
窓の外を見ると、何かいつもと違う風景、ロスの空港の賑やかさが無い、不思議に
思っていると、滑走路からエプロンに入った所でストップ、飛行機が連なって渋滞
している。 そしてどんどんと飛行機が着陸してくる。
何か異変を感じたが、機内には何もアナウンスは無く、CAの姿も見えない。
乗客も皆不安そうに待機している。 30分程してやっと機長からのアナウンスが
あり、ここはロスでは無くカナダのバンクーバー空港だという、詳しいいきさつの説明
は無いが、ハイジャックがどうのこうのという事で、私は自分の飛行機がハイジャック
されたのかと思った、しかし機内には何も変化は無い。不安の中さらに30分が経ち
やっと機外へ出られるとの事。手荷物を持って一人ずつ出ろとの事。
機外へ出るとサテライトの両脇に警官がずらりと並び、その間をゆっくりと一人ずつ
抜けて行く。 そして何も訳の分からないまま待合室に行くと、大勢の人でごった返し
皆TVを注視している。 私達もTVを見て我が目を疑った。ビルに飛行機が衝突して
いるニュースが目に飛び込んで来た。これがテロだと分かったのはかなり時間が経ってから
だった。
空港職員もパニック状態で、何も分からない、しかし皆さんには適切に対処をします。
と繰り返すのみ。
私は直ぐに日本へ連絡し、事の状況を聞いた。そして現状を見ると、これは大変な
事だと思い、すぐにレンタカーを手配してホテルを予約した。空港内は殆ど身動き
出来ない程込み合っていた。とりあえず空港を離れ、ホテルに向った。ホテルに
チェックインをしたところ次々と電話がかかってきたが、もうすでに部屋は満室だった。
私達ももう少し遅そければ、ホテルに泊まる事は出来なかった。
あとで聞いた話だが、バンクーバーのホテルはすべて満室で、多くの人は空港や
協会、学校等で避難を強いられたそうだ。
それから毎日空港へ通い状況を尋ねるが、アメリカのすべての飛行機は暫くの間は
飛ばないとの事、そして問題なのは、機内預けの荷物が返って来ない事で、もう
飛行機はどこかへ行って分からないとの事。
これは大変な事になった、大事なマシン、そして工具等も一切がなくなってしなった。
三日経ってもまだ飛行機は飛ばず、多くの人は身動きが取れない。バスや鉄道で
移動する人も出てきた。 しかし我々は飛行機を待つしか無い。また荷物も心配だ。
そして待つこと一週間、やっと飛行機が少しずつ飛び出した。私達も日本から東京へ
飛ぶ飛行機の予約を取ってもらったが、このまま日本へ帰ってしまったら、たぶん荷物は
帰って来ないだろうと考えた。そして色々な所から荷物の行方を問い合わせて貰ったが、
サンフランシスコにあるとかロスにあるとか、全くはっきりとしない。
私は荷物を受け取るまでは日本には帰れないと、とりあえずロスに向った。そして
色々と手配をしてもらったが、ホテルに届けるといったまま、何も連絡がない。
ただひたすら待った。事件から二週間、もうこれ以上は待てないと帰国を決めた。
そして、帰国日の朝幸運にも荷物が届いた。
安心して喜んだが、もう今はテストどころでは無いと帰国の途についた。
世界選手権の開催が近づいてきたが、協会より通達があり、今回の事件は
世界的な影響が大きい為に中止となった。
私には折角の機会を逃してしまった事で残念に思った。
Vol−111 へ つづく...
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