廣坂 物語
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−6
ヨーロッパへの旅立ち
6月10日朝、周囲の皆に見送られロンドンに向って旅立った。
殆ど連絡のすべも無い、何時帰ってくるのか、また帰って来られる
のか? あまり深くは考えていない、まあなる様になるさ。
町を出てすぐに高速道路に入り、一路ロンドンへ向かいドライブ
とにかく道が良い、イギリスでは主要道路はほぼ100%舗装され
ていると聞く、日本ではまだ50%以下だという。だから車も長持ち
するのだろう。私の愛車のボクスオールももう10万マイルも走行
しているのに、しっかりと走る。しかし危険なので80km/hは、出
さない様に走行する。
イギリスでは最高速度は、高速、国道共に70マイル約110km
でスピード違反の心配は皆無、まず他の車を追い越す事は無い
途中、サービスエリアに立ち寄り、休憩をしたり食事をする。高速
は無料の為、途中で降りて周りを探索しようかとも思ったが、まだ
最初でもあり、とにかくまずはロンドンへ行き、それからゆっくりと周り
を見学しようと思った。
約6時間位のドライブでロンドンに到着、まずは軽く町を周回して
今日の宿を探す。宿は町中では料金が高い為に、郊外のいつも
の、Bed&Breakfast を探す。ロンドンに入る前にも多くの
看板を見つけた。
そして、周囲をぐるぐると回っている間に、小奇麗なB&Bを見つけ
立ち寄った。人の良さそうなちょっと小太りのおばさんが応対した。
とりあえず、3日間の宿泊をお願いした。 料金は1泊1ポンド
(1ポンド≒¥800)で予算より少し高いがまあこんなものだろう。
まずは宿を確保出来たので再度町に向かい中央郵便局を探す。
これは日本からの手紙等を受け取る為である。
日本との連絡は、勿論電話を使う事は可能だが、料金が非常に
高い、その為に殆どは手紙やハガキでする。こちらからは、ほぼ
3〜5日毎に絵葉書等を送るが、日本からはこちらが動けば送り
先が分からない。
そこで、連絡の手段として、主要都市の中央郵便局の局止めで
郵送する。そして私が局へ行き郵便物を受け取る。という手段
だ。これは旅行のガイドブックに記載されていた。それを実践しよう
と、10日程前に日本に連絡し、最初に手紙等をロンドンと、パリ
の郵便局へ送る様に連絡をしていた。
ロンドンに入ると、まずは地図を購入。日本語の地図を探したが
見つからず、英語の観光地図を買った。そして中央郵便局を調べ
るが、たどり着くのに非常にむつかしい。日本でロンドンに住んで
いた人からのアドバイスで、ロンドンの警官には道を聞くな! と
言われた。日本人とみると殆ど本当の道を教えてくれない。教え
られた反対方向へ行くほうが確率が高い。
と言われていたので、人に道は聞かず何とか自分で探しあてた。
そして、半信半疑でパスポートを見せて、日本から私宛に荷物が
届いていないかと尋ねたところ、何と一個の小包が届いていた。
いとも簡単に受け取る事が出来た。
直ぐに車に戻り中を確認すると、仲間達からの励ましの手紙、
写真、そして新聞等が送られて来た。嬉しくて涙が出てきた。
宿に戻り、何度も何度も手紙や新聞を読み返した。久々に
見る日本語だった。
言葉も長く日本語をしゃべった事が無いので、日本語を覚えて
いるのか?しゃべれるのか? 何か不安になる事もあった。そして
一人車で大きな声で、日本の歌を歌う事もあった。
しかし、ちょうどこの頃世界中で、坂本九の”上を向いて歩こう”
が大流行して、訳の分からない日本語で歌われているのを良く
耳にした。海外では、”すきやきソング”と言われていた。何故?
宿には、私の他にもう一人私の知らない国から旅行をしている。
青年がいた。夜食事は出ないが、おばさんが二人にお茶とお菓子
を出し、少し話をしようとリビングに集まった。しかし3人が”英語”
で話をしているつもりだが殆ど通じない。私の英語はすごい田舎
訛りだそうで、青年も何か良く分からない英語だった。
なんとなく雰囲気で理解は出来たが詳細までは分からなかった。
やはり言葉の壁は一番大きい。これからヨーロッパに入ると、英語
も通用しない様だ、大丈夫かな?
2日目は、ロンドン見学に出かけるが車では場所も分からず、また
駐車も不便な為に、近くの地下鉄の駅の近くで車をとめて地下鉄
で行く事とした。勿論ロンドンの地下鉄は初めてだが、ここでは
電車は大変地中深く走っているそうだ。そういえばエスカレーターも
大変長く、地中深くまでつながっている。
ロンドンは、前回の視察団の時に凡その有名な所は見学して
いる。私が再度行きたかったのは、Goldsmith といわれる民間
の金加工や、金プラチナ等の品質の検定をするところだ。ここでは
金等の品位の検定をして合格品には刻印をするが、不合格品
は、その場で破壊してしまうとの事。日本では造幣局が行っている
が、不合格品でも壊さずそのまま返却する。
ロンドンでは、一応有名な観光地は一通り見学して、15日より
いよいよ、ヨーロッパ大陸へ渡る。ドーバー海峡をフェリーで渡る
事となるが、これは勿論外国航路で、しかもフランスに入ると、
通行が逆になる。イギリスは日本と同じ左側通行だが、ヨーロッパ
は右側通行となる。勿論初めての右側通行だ。どこで切り替わる
のだろう? 不安と期待を持って、次の目的地パリに向って出発
をする。
バッキンガム宮殿での衛兵の交代。
衛兵、大変背が高い。子供が周りで騒いでも、ピクリともしない。
有名なロンドン塔
6月15日 ヨーロッパ大陸へ。
次の目的地はフランスのパリ、夜までにパリに着きたい為に、
朝一番に出発してフェリーの乗り場のドーバーに向う。ここから
フェリーでフランスのカレーまで行く。フェリーはマン島行きで利用
した為に凡その要領は同じだろう。やはりここも外国航路となり、
出入国の手続きが必要となる。フェリーは2時間位で行くそうだ。
入船は難なくいったが、降りるときは問題かな? 通行も右側
通行となる。船内は国際線の為に、やはり免税となる。 タバコを
少し買い溜める。日本ではセブンスターを吸っていたが、こちらでは
どこも売っていない為にマルボロに変えた。価格は安い。免税だと
さらに安い。
さらに船内では、フランスの道路地図を購入。勿論有名な、
ミシュランの地図だ。そして、グリーンカードという保険に入る。
これはヨローッパ全土で使用出来る車の保険だ。対人、対物等
がすべてセットになっている物に入る。
ヨーロッパでは保険に入っていないとそれだけで、体刑になる事も
あるという。 保険は約1万円、かなり高い。
ここでお金をドルからフランの交換する。 そしてフランスでの車の
運転や法規等の案内のパンフレットがあるが日本語は無い。
何か良く分からないがなんとなく分かるが、標識等は日本とは違う
ものがある。
たまたま居合わせた、英国紳士が話しかけて来た。日本人か?
そうです。何処へ行くの? 特にあては無いです。出来れば、
ヨーロッパを一周するつもりです。 一人でか? はい。
ちょっとびっくりしていた。
イギリス人は、やはり日本をかなり見下しているようだった。しかし
親切にフランスでの車の注意等を教えてくれた。 当然フランスは
右側通行だが、面白いルールがあって、右方優先と云う事だ。
これは、交差点等では常に自分の右側の車を優先する。
従って交差点に入るときは右側のみ見ていれば良い。もし交差点
で事故があれば、常に左側の車が悪くなると言う事だ。
また、パリでは市内では夜はヘッドライトを点けてはいけない。
対向車のライトが眩しい為に普段はスモールライトで走行する。
そして交差点が近づいたらパッシングをして横からの車に知らせる。
後日これは本当だったが、慣れないと大変怖い、細い道等では
街頭も少なく道が殆ど見えない。人でも飛び出したら、確認出来
ない。しかし人が飛び出す事は、まずありえないとの事。
もし、横断歩道以外の所で人が車に衝突すれば、車の賠償を
取られる事もあるという。 ちょっとびっくりだ。
フェリーがフランスのカレー港に到着、出入国手続きは船内で
行われるが、車に乗ってから税関検査がある。一台づつ税関
コーナーへ行き、手続きをする。特にめんどうな事は無かったが、
1台ずつの為に、終わった時は周りに車は一台も居なくて、何処へ
行けば良いのか?分からない。又道路も右側通行の筈だが...
とにかく案内が少ない、というより自分が分からないのか?適当に
進んでいると、パリという案内が出てきた。この高速道路にのれば
パリへ行けるのか。とにかく今日の目的地はパリ。パリを目指す。
フランスの高速道路は有料。日本と同じ様にゲートがある。
高速道路だと左右が入れ替わってもあまり違和感は無いが、
追い越し車線が反対になり、普段走っている、左の車線が
追い越し車線となる。私は常に右側車線を走らなければならない
ここでは、最高速度は130Km/hのため、皆かなり速い。
そうこうしている間に早くもパリの町に到着。市内には環状線の
様に周回出来る高速道路がある、大変大きなロータリーの様な
感じだ。 場所によっては10車線位あるかも知れない。 ここを
周回しながら、目的地に向って放射状の道を進んで行く。
私は良く分からない為に、ぐるぐると3周位まわった。さて今夜の宿
を探さなければ...ここではイギリスの様なB&Bは無い、また
パリの街はさほど大きく無い為に車ではなく、徒歩とバス等で見学
する予定の為、あまり町から離れない方が良いと判断した。また
ここでは、3流ホテルだとそんなに高くは無いと聞いていた。
車で下町をゆっくりと流してホテルを探す。中心部からそんなに
離れなくても、一見安そうなホテルは一杯ありそう。車も殆どが
路上駐車。駐車場というのは殆ど見当たらない。
小さな、ペンションの様なホテルを見つけて、ちょっと値段を聞いて
見よう。 そしてホテルのフロントへ...フロントというより、小さな
カウンターがあるだけ。40歳位のおばさんがひとり。
まずは、ハロー! 英語話せますか? ??? ダメ!
そうか、では挑戦、まずは価格、価格を聞こうとするが、通じない。
まずは数字、これも大変難しい、何人なのか?何泊なのか?
筆談を交えようやく通じた一泊は10フラン約¥600ほんとかな?
でも前金で一週間の予約を取った。大丈夫だろう。車もホテルの
前の道に止めても大丈夫と言うことだ。 早速部屋へ案内して
貰う。小さな部屋にシングルのベッドが一つ、洗面所はあるが、
トイレ、シャワーは共同。 まあ価格からすれば善しとしよう。
私の部屋は、3階だが一応エレバーターはあるが、一人用で扉は
自分で開閉するタイプ。ちょっと不安なので、エレベーターは使用
せずに階段を使う。
当然食事は何も付いていない。ただ周りには色々と店がある為に
食べ物には困らない。
フランスでは、有名はハンバーグショップで、ウインピーがある。
ここはハンバーガーだけでなく、ちょっとしたディシュがある。これが
主食となる。 ちょうど向かいには小さなスーパーの様な食料品店
がある。驚いたのは、ここには食用猫が売っていた。フランスでは
猫を食べるそうな。
パリの市内の地図をみると、さほど大きく無く観光地等もホテル
から歩いても行ける距離の為に、ここでは徒歩を中心として探索
する事とした。地図を赤ペンで塗りつぶしながら、市内の殆どの
幹線道路を歩いて回った。
ほぼ5日間、毎日かなりの距離を歩き、市内を見学して回った。
主な有名な観光地は殆ど制覇出来た。エッフェル塔では最上階
まで歩いて上った。
パリは確かにファッションの街で流行の先端だが、私も宝飾や
アクセサリーを中心に見て周り、また博物館等も行った。
しかし聞く所によると、殆ど製作やデザインはイタリアで行われて
いるとの事、そうか、じゃイタリアへ行って見よう。
次は南下して、ニース、モンテカルロ等のコートダジュールを経由
してイタリアへ入ろう。と決めて、6月21日パリを出発、一路南下
ニースまで約900km真っ直ぐいったのでは面白くないの少し
寄り道をしながら2日かかりで行こう。東よりの道を通り、スイス
側で、アルプスが見えるかもしれない。スイスはイタリアからの帰り
によるつもり。
そしてひたすら高速を走り続ける、スイスに近づくと山岳部に入る
高速だけどかなりきついカーブが続く。地図を見ながら進むが、
どこかで道を間違ってしまった。そしてこの後とんでもない出来事
が...
パリでは、まずは全体を把握する為に市内観光のバスに乗る、
正面は凱旋門。
エッフェル塔は歩いて上った。
リヨンの自動車博物館にて。
トラブル発生!
山岳部の山道の高速道路、かなりキツイカーブが続く。制限速度
が60km/hと表示されると、殆どへアピン。私の車では制限
速度でも速すぎる。
暫く走っていると少し平坦地になったと思った途端に、”料金所”
が現れた。もう高速道路が終わりかな?と思った。そしてゲートの
窓口で料金を払おうと体を乗り出した。私の車は右ハンドルの
為に、左の窓口から払わなければならない。金額も分からない為
に、いつも少し多めの50フラン(約¥3000)札を出す。
今回も50フラン札を窓越しに差し出した。しかし係員が何かを
言っているが、言葉が通じない。料金が足りないのか?と思って
100フラン札を見せたが、受け取らない。そして盛んに何かを
行っているのだが、分からない。さて困った、どうしようかと考えて
いると、別の係員が来て車をゲートを通り過ぎて横に着ける様に
誘導した。
何か雰囲気がおかしい! そして車を事務所の様な所に着ける
と数人の係員に取り囲まれた。 ?? 何? 事態が把握出来
無かったが、周りをみてようやく状況が分かった。 ここはスイスとの
国境だったのだ。 しまった! と思った時はすでに時遅し。
本来パスポートを出さなければいけない所でお金を出したもの
だから、怪しまれたのは当然だ。 何とか弁解をしようにも、全く
言葉は通じない。英語すら話せる人がいない。
それからが大変、取調べ室の様な所へつれて行かれて、持ち物
検査、一方外では車のシートまで外して隅から隅まで検査を
している。身振り手振りで何とか状況を説明しようとしたが、殆ど
相手にされない。この後どうなるのだろうか?かなり不安になった。
これは、大使館でも連絡して貰わないとだめかとも考えたが、もう
じたばたしても仕方無い。成るように成るさと開き直った。
もう好きな様にしてくれ! どんなに調べて何も怪しい物等は
出る筈が無い。
荷物そして車隅まで調べる事約4時間、やっと疑いが晴れた様
と言うか諦めたのか開放された。 助かった! 一時はどうなるか
と心配した。まさか国境だとは思わなかった。勿論車で国境を
越えるのは初めてでどんな所は全く知らなかった。料金所と殆ど
変らない。 ただあとで気がついたのだが、事前には国境のサイン
が数多く立っていた。
本来はスイスへ行くつもりではなかったのだが、標識が読めなかった
為に、道を間違ってスイスの方へ行ってしまったのだ。
ここでもう一度フランスへ戻るのも気分が悪いのでそのまま進み
スイスへ入る。まずはフランスの国境(出国)を越えると、100m
位の距離を置いて、次はスイスの入国審査がある。この間は
無国籍なのか? 今度は何事も無かった様に一番にパスポート
を提示、なんの問題も無く通過。 スイスに入った。ほっと安心した
せいか急にどっと疲れが出てきた。時間も費やした為にもう夕方に
なってしまった。近くの町で宿を探した。
小さなペンションの様なホテルを見つけ、ここで1泊する。周りには
殆ど何も無い。ホテルで食事を済ませ、地図で場所を確認、
レマン湖のすぐ近くだった。よし明日はレマン湖に行きそして
アルプスへ行ってアルプスのハイジーを探そう!
”口笛はなぜ遠くまで聞こえるの?” おしえておじいさん!
今日は大失敗だったが、結果オーライで無事。気を取り直して
明日は、アルプスに挑戦! 早く寝よう。
レマン湖のほとりジュネーブの大噴水100m以上吹き上げる。
スイスアルプスを目指す。
6月22日 レマン湖のほとりのホテルを出発。レマン湖をほぼ
一周してインターラーケンへ、ここから登山鉄道でユングフラウへ
向う。 どんどんと上へ上って行く、下ではもう暑いのに上には
多くの雪がある。
まさに絵に描いた様なアルプスの景色だ。ハイジーが出てきても
全く違和感は無い。
アイガー北壁を望み、寒いので早々に下山。今日は登山口とも
いえる、インターラーケンでホテルを探す。ここはたいへん多くの
観光客で賑わっている。登山客も多い。ここで知り合った外国人
(どこの国か分からない)が、スイスには有名な温泉があるという。
行って見たかったが、場所がよく分からないので断念。
これから一週間後、この登山鉄道が下り坂で暴走して多くの
死傷者が出たそうだ。勿論この時は知る由も無かったが、これは
日本から送ってくれた新聞で知ることが出来た。
翌日は、ベルンを経てチューリッヒへ。チューリッヒは名前は有名
だが、特に私には珍しいものも無く、次の訪問地を模索した。
地図を眺めて色々と検討していると。スイスは小さな国だが大変
立地条件が良い。周りには、フランス、ドイツ、オーストリア、そして
イタリアと5カ国と接している。
ここから南下すれば直ぐにイタリアのミラノに行く事が出来るが、
あとの道順を考えると、私が行って見たいコートダジュールは行け
無くなってしまう。 順序から行くと、イタリア、オーストリア、ドイツ
と言うことになるだろう。
そこで少し遠回りになるが、最初の予定通り、もう一度フランスの
リヨンに戻り、そこから南下して、マルセーユ、ニース、モンテカルロ
を経由してイタリアへ入ろうと決めた。再度問題の国境を越えて
フランスへ。今度は最初にパスポートを提示した為に問題なく
通過した。
気分はハイジー! とても気持ちが良い。
もう初夏だというのに、雪が一杯。 少し寒い。
登山電車でユングフラウへ...この電車が後日大きな事故を
起す事となった。
一路南下、マルセイユに到着。そこから、カンヌ、ニース、モンテ
カルロと有名なリゾート地が続く。さすが有名人達も多く訪れる
場所とあってホテル等も高級ホテルが多く、私には泊まれない。
あちらこちらと車で走り回り、街からかなり離れた所にホテルを
探す。それでも20フラン、少し高い。パリでも10フランだったのに。
さすがニースやモンテカルロは、名だたるリゾート地で多くの
お金持ちが集まる所、今の私にはちょっと不似合い。でもいつか
ここで、バカンスを過ごせる様になれば...等と思ったが。
その後、ここを訪れる事は無い。
モンテカルロは、F1レースが道路を閉鎖して行われるが、コースと
なる道路の一部を走行してみたが、マン島と同じく、良くこんな
道をものすごいスピードで走れるな? と感心した。やはり彼らは
普通の人間では無い!
ここで、長居をしていてもたいして得るものは無い。次はイタリア。
海岸沿いを走行して、ジェノヴァへ入る。そして少し逆もどりして
トリノ、ミラノへ、今日の宿泊はミラノ郊外、イタリアはかなり物価
も安い。1リラ約0.5円。お金が倍になった様に感じる。
ホテルも朝食付きで1000リラもあれば十分。
明日は、有名な憧れのフリーウエイ、太陽の道。
AUTOSTRADA DEL SOLE 制限速度が無いフリーイエイ
でここを全開ですっ飛ばす! のが夢。 しかしわがボクスオール
では、100km/hが限界。
ミラノ、からローマまで約500km。そしてローマからナポリまで
約200kmの高速道路。 フェラリーや、ランボルギーニが飛ばして
いるのかな? しかし、現実は...イタリアではスパーカーは殆ど
見ない、それよりも軽自動車の様な、小さなフィアットがうじゃうじゃ
と走っている。 この車をイタリア人が購入すると、半分は国から
お金が出るそうな。
また、イタリアは観光誘致の為、国境で外国人観光用にガソリン
を200Lまで半額で購入する事が出来る。これはガソリン券を
購入する。これは何処でもこのチケットで給油する事が出来る。
その為に、そのチケットを売って欲しいというイタリア人が出てくる。
国境を越えれば何度でも購入する事が出来る。面白いシステム
である。
ここで、興味のある情報を得た、6月29日にはモンツアサーキット
にて、F2レースが開催されるとの事、日本から、生沢、風戸選手
も参加するとの事、これは是非見に行かなくては。両選手は勿論
日本ではトップドライバー、修行の為にF2に参戦していると聞いて
いたが、ここでみられるとは...
これから、ローマー、ナポリまで足を延ばし、29日には再度ミラノ
へ戻って来よう!
ニースの海岸、とても綺麗でゴージャス。でも一人で行っても
つまらない!
F1レースが開催される、モンテカルロ。 カジノで有名。カジノの
収益の為に、住民は税金は払わなくても良いとか...
ジェノヴァからフィレンツエに入り一泊して太陽の道でローマへ
南下。太陽の道、どんな凄い道かな? と期待していたのだが
普通の高速道路、ただ速度の制限が無いだけ...。
ちょっと期待外れしかし、実際に走行してみると、やはりみんな
速い! 3車線あっても私の車では、第2車線を走る事も殆ど
無い。時々トラックを追い越す土岐に走行するくらいだ。
追い越し車線は殆ど走行した記憶はない。
一気ローマまで突っ走りローマで宿泊。ここでは色々と史跡等を
観光。しかし最近はかなり疲れも出て来てあまり意欲的に見学
等が出来なくなって来ていた。
一応の有名所は見学し、次はナポリへ向う。ナポリを見て死ね!
とはよく言われたもので、こちらも期待は多きかったのだが、私には
たいして魅力は感じなかった。ただ、車が多く常に渋滞に悩まさ
れた記憶のみがある。
ローマでの観光。
有名なトレビの泉、ここへ後ろ向きでコインを投げ入れると再度
ここを訪れる事が出来るという。勿論コインを...
その後、何度かここへ来る事が出来た。
そして28日には、モンツアのF2レース観戦の為、ミラノへ戻り
モンツアの近くで宿を探すが、レースが近いのでホテルは殆ど
満室、郊外の車で30分以上の所でようやく確保。
小さいホテルだが料金も高い。
28日F2決勝日、サーキットへ向うが、場所が分からない。大きな
レース等で直ぐに分かるだろうと思っていたが、案内も無い。
ガソリンスタンドで聞いてみよう。そしてガソリンを入れて、サーキット
は? と尋ねても、全く言葉が通じない。絶対に遠くは無い筈だが
身振り手振りで説明するが、全く要領を得ない。そこへ外国人
らしき人が来て、私に英語で尋ねた。そうしてF2のコースへ行き
たいと伝えると、通訳をしてくれてすぐに分かった。イタリア語では、
アウトドローモと言うそうだ。ここから5分位の所だそうだ。
後は簡単に見つかり、コースへ入る。まずはスタンドから観戦。
しかし。ここからでは、少ししか見えない。ただこのコースはかなり
単純なコースでコーナーも少ない高速コース。
まずは前座レースとして、GTカー等のレースが始まる。さすが
イタリア、もの凄く盛り上がる。スタンドでは自動車の爆音より
歓声のほうがうるさい感じだ。 しかも前座レースでも皆イタリア人
を応援する。イタリア人が奮闘すると、大歓声。負けるとブーイング
そしていよいよF2の開始。生沢、風戸選手は? 残念ながら
中盤以下からのスタート。ポールはやはり当時の王者ブラバム・
ヒル、それにイタリアドライバーが挑戦。かなり盛り上がったが、
やはりヒルの独走に終わった。日本人選手は、何処に居たのか?
日本でのトップドライバーでもやはり世界ではこの程度か? 少し
がっかり。 しかしさすがにレースが国技のイタリア、この熱狂には
驚いた。すごい!の一言。
公式プログラム
F2のメンバー表、生沢、風戸選手の名前もある。
イギリスを出て、約20日車での一人旅、かなり疲れも出てきた。
そして何か当初も目的も見失いがちで、急にホームシックになって
来た。もうそろそろ帰ろうか? しかしヨーロッパもまだ半分も回って
いない。せめて行くだけでも行ってみよう。これからイタリア最後の
都市、水の都ベニスを訪れ、北上してオーストリアに入り、ここで
3泊してドイツ、ミュンヘンへ入る。ドイツではシュツトガルトへ行き
ベンツ、BMW、ポルシェ等の工場見学が出来るそうなので、
言ってみよう。
水の都ベニス。ここでは車は一切入れない為に、近くの広大な
駐車場に車を停めて、船のタクシーで町に入る。町の交通は
船か徒歩。
イタリアを出てオーストリア、ウイーンに入る、音楽の都と言われる
大変綺麗で静かな町だが、私にはあまり興味の引くものは無い。
簡単に一巡をして、ドイツに入る、そしてミュンヘンを経由シュツット
ガルトに向う。ここはドイツの多きなメーカーが集まっている所、メーカー
の訪問を企画。まずはポルシェ社を訪問。しかし何とすでに夏休みに
入り工場等は殆どが閉鎖され。見学は出来ない。次はBMWを訪問、
ここもダメ。残るはベンツ、ここは通常より少し縮小されるようだが工場見
学が出来るそうだ。 受付で少し待ち10名位集まると、係員が案内を
してくれる。
まずはベンツの歴史等を紹介してそれから、工場に入り車の生産の
工程を順番に案内をしてくれる。シャーシ、ボディ、エンジン等が
個別に作られて、それらを組み立てて完成させる。
この様な工場を見学するのは、勿論初めてだがラインで車が
出来上がって行くのをみて、凄い! と感じた。また手作りの部分
も多く、ベンツの品質の良さが感じられた。また見学の後は、
体験走行があり、有名な90度バンクのコースを試乗する事が出
来る。勿論これは自分で運転をするのでは無く同乗となる。
4人ずつが試乗出来る。何かジェットコースターに乗る様な感じだ。
順番が回って来て、私は幸運にも助手席に乗ることが出来た。
最初はゆっくりと、スタートしてオーバルコースを走る、前方にバンク
の壁が見える、まさに壁だ。確かに上は90度で真横になる。
ラインで5段位に仕切られている。 私は以前バイクのレースで
富士サーキットのバンクを走行した事があるが、ここでも最大30
度のバンクだった。またRも大変小さく凄く恐怖間観を感じる。
一周目は。2段目位を通過。バンクに入るとと強いGを感じる。
2周目にはほぼ真ん中40度位だろうか? そして3周目には
いよい90度か? しかし90度には至らず、一段低い所を通過。
ここで終了。やはり危険が伴う為に、体験走行は90度は行わない
そうだ。 90度を通過するには、速度は200km/h以上出て
いないと通過出来ないそうだ。
しかし、大変に迫力がありスリルがあった。 よい経験が出来た。
そして、最後には完成した車が展示されている展示場に案内
された。もしここで車が欲しければ、その場で乗って帰る事が出来る。
また、自分の欲しい車がなければ、空港やホテルまでリムジンで
お送りします..との事。車の購入には日本の様な複雑な手続き
は要らず、お金を払ってサインをすれば直ぐに自分のものになる。
”名物?” の90度バンクのあるテストコース
ヨーロッパほぼ全土に通用する。自動車保険”グリーンカード”
ヨーロッパのある国では、保険に入っていないと、それだけで体罰になる国も
あるそうな。
シュツットガルトを経ち、フランクフルト、ケルンに宿泊し、ベルギーの
ブルッセルに入る、そしてダイヤモンドの町と言われるアントワープへ行く。
そして、オランダ、アムステルダムへ向う。もうこの頃には相当に疲れも
たまり、そろそろイギリスは帰ろうと思った。 走行距離ももうほぼ8000km
位になったいた。オランダからそのまま引き返し、イギリスへ戻るつもりだった。
しかし、ここまで来ると、せめてもう少し...
スエーデンまで足を延ばしたい! そして一念発起、ハンブルグを経て
コペンハーゲンまで到達。ここで有名な人魚をみて、イギリスへの帰路に
着いた。 イタリアを出てもう2週間位経過した。
7月22日、そこから一直線に南下して再び、ドーバー海峡の入り口、
カレーへ。 ウエリントンのチャーリーには、時々絵葉書を出した位であまり
連絡はしていない。急に帰るとビックリするだろうな。 あえて連絡を
しないで驚かしてやろう。
7月25日、帰りも色々な町に寄り道しながら、ついに懐かしの”我が家”
に無事たどり着いた。 約40日のヨーロッパ大陸の車の旅だった。愛車の
走行距離は、ほぼ10000kmに及んだ。また泊まった町も20箇所以上と
なった。
突然の帰宅で、チャーリーや近所の人達もびっくりしたが、大変喜んで
くれた。 その夜はみんなで、小さなパーティを持ってくれた。
これで一応私の目的?は、果たした為に、今度は日本へ帰る準備に
取り掛かった。 預かって貰っていた、荷物はすべて日本へ送り返す。
衣類やお土産等を梱包して、郵便で送る。じつに箱が12個になった。
勿論船便なので、1〜2ヶ月位要するとの事。
そして愛車の処分。このポンコツはもう私には必要は無い為に、世話を
してくれた青年達にプレゼントしようと思ったが、彼らは就職の為、遠くの町
へ行ってしまった様で会う事が出来なかった。大変残念だった。
そして、チャーリーの友人がまた、この車をセリに出してくれた。そして何と
7万円で落札された。少しは修理やパーツ等でお金は使ったが、9万円で
勝った車が、10000kmも走って、7万円で売る事が出来た。
実質には2万円で使用出来た事になる。もしレンタカー等を使っていたら
幾らかかっただろう?
そして、8月2日には、帰国の途に着く事を決め、マンチェスターからロンドン
までの航空券を予約した。 いよいよウエリントンでは、最後となる一週間と
なった。
帰国の途へ...
8月1日 いよいよ明日にはお世話になった皆さんとのお別れの時を向かえ
お姉さん宅で近所の皆と最後の晩餐となった。 うまく言葉が伝わらなかったが
お互いの気持ちは良く通じ、感謝の気持ちと別れを惜しむ悲しい気持ちが
交錯し、皆複雑な気持ちで言葉も少なめだった。
8月2日 お別れの日、バスでマンチェスター空港へ向う。バス乗り場まで
チャーリーや、お姉さん達が見送りに来てくれた、皆で再会を誓い涙の別れを
した。 しかし心の中では恐らくもう二度と会う事は出来ないだろうと思った。
空港までの約1時間、ここでの思い出が走馬灯の様に頭を駆け巡り、涙が
止まらなかった。 皆さん、見ず知らずの私に本当に親切に家族様に扱って
頂きありがとうございました。 この好意は一生忘れる事は無いでしょう。
マンチェスター空港よりロンドンへ向い、とりあえずヒースロー空港に到着。
これから帰りのフライトの予約を取る。私はヨーロッパからのオープンチケットを
買っていたために、帰りは色々な航空会社を利用して、同じ路線を通らな
ければ、何度でも途中降機が出来るので、そのまま日本まで直行するのは
もったいない為に何度か途中で寄り道をするルートを考えた。
いずれにしても、南回りで帰るとすれば、途中で3〜4箇所は給油の為
降機する事となる。 まずは今回の旅の途中でヒッチハイクで乗せた二人の
ギリシャの青年を尋ねて見よう。そして出来ればアフリカ大陸にも足を
伸ばしてみたい。 と言うことで、ロンドン→アテネ→カイロ のルートを予約
した。その後はまだ未定だが、スリランカ、やタイ等にも立ち寄ってみたいと
思った。
そしてロンドンに3泊し、ロンドン市内を見学して、8月5日はギリシャのアテネ
へ到着。 ヨーロッパで知り合った青年の所は空港から電話をする。 何とか
通じて空港まで車で向かえに来てくれた。 そして、自宅近くの小さなホテルを
予約して、二日間アテネの町を案内してくれた。 古い遺跡等も多くあり大変
良い町だと感じた。
そして次はエジプトのカイロへ。 当たりまえだが非常に暑い。 カイロへ来れば
やはりピラミッド、ここでは車は乗れないので、観光バスで名所を巡る。勿論
ピラミッドも...ピラミッドでは少し登ってみる、多くの石が積み重ねられている
のだが意外と一つが大きいのにはビックリ。 すこし上まで登ってみるが、私は
高所は苦手なので直ぐに降りる。 そして今度はらくだに乗る。
私は大学では少しだけ乗馬クラブに入っていた為に、馬には良くのっていたが、
馬も相当高いがらくだはそれよりはるかに高く感じ、これまたびっくり。
そして、観光を終え、ホテルに帰り近くのレストランで食事、エジプトでは名物
料理にハトがあるとガイドブックに載っていた。 そこでやはり名物のハトを注文
した。出てきたものは小さな鳥、しかもナイフとフォークではとても食べ難い。
骨に少ししか身が付いていない。 悪戦苦闘して身を食べたが、殆ど食べた
気がしなかった。 あとで聞いたのだが、これは骨ごと食べるのだそうだ。
しかし、その夜このハトが当たったのか、また今までの疲れが一気に来たのか
急に気分が悪くなり寝込んでしまった。 あくる日はかなり弱り、ホテルで寝た
ままの状態となった。9日にはタイのバンコクまでのチケットを取ったが、とても
乗れそうにないので、一日延長して10日に変更してもらった。
医者にいくにも要領が分からず、そのままホテルで寝ていたら、少しづつ回復し
元気も戻って来た。
そして10日、バンコクへ向ったが、この飛行機は日本航空で東京羽田行と
言う事だった。私はチケットはバンコクまでだが、何とかこのまま日本まで行き
たいと申し出たが、バンコクからは満席で乗れないというつれない答え、しょうが
無いので、予定通りバンコクで3日滞在、しかしここでもまだ体調が良く無く
殆どがホテルでの滞在となった。
そしていよいよ帰国の日、やっと日本そして家に帰る事が出来る。3月に
出国して丁度5ヶ月となる。 正美は覚えてくれているだろうか?
8月13日 帰国の日朝からわくわくして、もう病気の事も殆ど忘れてしまった。
空港で搭乗を待つと、懐かしい日本語が聞こえる。日本人の団体だ、また
空港でのアナウンスも日本語が入ってきた。 これほど日本語が恋しいと思った
事は無い。 思わず人に話しかけたくなったが、恥ずかしいので話さなかった。
そして搭乗、航空会社はエールフランスだが、まわりは殆どが日本人、乗務員
も日本人がいる。 日本語で話しが出来るのがこれほど楽な事だと思わな
かった。
そして大阪国際空港(伊丹)に到着、お腹の大きい妻、正美、そして友人達
の出迎えを受ける事となった。
今回、最後の観光地となったエジプトのピラミッド
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