廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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 Vol−7

 新生活の始まり。
 
 8月13日、3月11日に出発して以来、丁度5ヶ月ぶりの帰国となった。
 仲間達と一緒に、妻、正美も空港へ出迎えに来てくれたが、当然のごとく
 正美は、この人誰? という感じで...丁度人見知りをする時期だったのか、
 愛想の無い出迎えだった。

 それから、数日間は仲間達が家に入り浸りで、毎日パーティの様で旅の説明
 に明け暮れていた。 しかしなかなか以前の生活の様に戻れない。 朝に目が
 さめると何処にいるのか?良く把握が出来ない。 大好きで一番楽しみにして
 いたのはお茶漬けを食べる事だったが、いざ食べると思った程美味しくない。
 もうパン食に慣れてしまった為か? また上手く食べる事が出来ずに、口から
 ボロボロとこぼれてしまう。 ほんとに慣れとは恐ろしいものだ。 
 自宅に居る事が実感出来るまでにしばらくの時間が必要となった。

 そして10月には次男の光美が生まれる。 正美は生まれる前は皆が女の子
 だと言っていた為に私達も疑うことは無く、女として予定をし、名前も家族の
 3人の文字を取り、正美とする事を決めていた。しかし生まれてびっくり男の子
 たっだ。 みんな予定と違うと慌てた、服などもすべて女物を用意していた。

 また名前もどうするの? 正美のままでいいじゃないの。そのままいこう! という
 事で正美となった。

 さて今度は、やはり女だろう、とまた皆が予想をしたが、前例があるので今度は
 一応両方を考えておこう。 名前はおばあさんの希望で光美とする事に決定。
 10月5日、やはり皆の予想を裏切って男の子光美が誕生。 私は怖くて
 子供を抱く事が出来ない。 以前正美の小さい時に、風呂に入れてる時に
 石鹸で手が滑り、湯船の中に落としてしまい妻に大変叱られて、それ以来
 子供には触らせてもらえなかった。

 このころには正美も少しづつ慣れてきて、一緒に遊んでくれる様になった。
 そして、外国から送った荷物が次々と家に配達された。殆どが衣類等と一緒に
 お土産等も送ったのだが、封も開けずそのままの状態で届いた。しかしさすがに
 数量が多い為か5、6個目位から、東京税関より問いあわせがあった。しかし
 特に高価なものは無く、課税される事は無かった。

 この中で一つ、正美にと思ってイタリアで買った、トイラジコンがあった。
 1/8位の大きな フェラーリー F1 だった。 実に良く出来ていた。
 スピードは遅いがプロポで作動した。 これが正美にとって最初のラジコン
 だった。しかし2、3日で壊れて動かなくなってしまった。


 何時までも何もしないでいる訳にも行かず、これから仕事をしなくては...
 まずは、以前に働いていた伯父のところへ挨拶を兼ねて仕事を貰う事。
 そして出発まで指導していた清水の会社へ訪問。その後はやはりあまり
 上手く稼動していないとの事。そこで社員となり再度働かないか?と言う誘い
 もあったが拘束されるのは嫌なので断り、そのかわりに下請けとして仕事を
 貰う事で合意。

 以前の会社を退職する時には、貴金属鋳造機を一式引き取り自宅で稼動
 出来る様にしておいた為に、まずは貴金属やアクセサリーの製造より開始を
 する事とした。

 いざ仕事を始めると、予想以上に多くの仕事の依頼があり、また丁度貴金属
 等のブームとなり、金製品や宝石等の販売にも手がけるようになった。
 殆ど何もしていなかったが、ヨーロッパ帰りと言う事も皆の信頼を得る事にも
 なり、多くの仕事を得る事が出来た。

 意外と早く順調に仕事が進み、私一人では手に負えなくなり、また仕事場
 も手狭になった為に、市内に小さな工場を借り、そこに機械一式を移し、
 そこで社員やアルバイトを雇い仕事を拡張していった。 
 何もかも順調で面白い様に進んでいった。 


    幼稚園に通う正美。 女の子の様だ...
     

 その後も仕事は順調に伸びて行き、収入も多くなり贅沢な生活が始まった。
 車も母がホンダN360のサンルーフ、妻がシビックとHONDA S800M、
 そしてGTR、ジャガーE−TYPE V12 等、車道楽も頂点に達していた。
 
 仕事も香港や、南米パラグアイやブラジルへ、宝石の買い付け等に行き、
 皆に羨ましがられる生活が始まった。そして元々旅好きな私は、暇を見つけて
 は旅行へ出かけた。日本では沖縄を除けば殆どの所へ行った。

 全てが都合よく進み、まさに地球は自分の為に回っている、と思える毎日だった
 多くの友人や知人が私の回りに集まって来た。
 若い社長...等ともてはやされ、いい気になっていた。

 しかし...

 元々何も実力が無く成り上がりの私には、この様な虚勢の生活は長く続く
 訳は無く、大きな落とし穴が待っていた。

 人も羨む幸せな日々。 しかし長くは続かなかった...



 天国から地獄へ...

 仕事がどんどんと進むにつれ知人の輪も大きくなっていった。 そして周りからも
 色々な勧誘があり、旅好きな私は知人の勧めで会員制の旅行クラブに入会
 した。これは会員権を購入する事で会の持つホテル等の施設を格安で利用
 出来、また他の一流ホテル等も大きな割引で利用出来るというものであった。

 当初は半信半疑で入会し施設等も使用したが、大変便利で有効な為
 多くの友人達にも勧誘して、みんなで利用した。会員権も年々価格が
 上がるとの事。1年程利用して殆ど毎月何処かへ行き大変重宝していた。
 
 当時、1家族100万円だった。 そして私の周りの多くの家族も入会して
 利用した。私は会の中でも古く、また多くの勧誘をした事で地位も上がり
 色々と優遇される様になった。 そして会から会員権を法人しにして欲しいと
 提案された。法人会員になると無記名で多くの人が無料で施設を利用する
 事が出来るという。 これはお客さんの接待も丁度良いと思い、1000万円
 を払い法人会員となった。 

 そして約半年後、衝撃的なニュースが報道された。それはこの会の社長が
 詐欺で逮捕されたのだ。 私はびっくりして会社に連絡をしたが、勿論もう
 すでに後の祭り。 会社の持ち物等はすべて差し押さえされていた。私は
 弁護士に相談したが、たぶん取り戻すのは無理だと伝えられた。

 私は人生の中で始めて一番大きな衝撃を受けた。まさか自分がこの様な
 大きな詐欺に合うとは... 私だけの問題では無い、多くのお客さんを勧誘
 した責任がある。 勿論、TVのニュース等で大きく報道された為に多くの
 お客さんも私に尋ねてきた。 私にはどうする事も出来なかった。 

 当然、被害者の会が結成されたが、状況から察すると取り戻す事は無理と
 判断し、訴訟等しても無駄金になると言われ債権を放棄した。

 驚いたのは会員での一番の債権者は本田技研だった。私は2番目で紹介者
 を含めると、約2500万円となった。

 勿論、紹介者からは私に苦情が殺到した。私は責任上このまま放置する事
 は今後仕事を続けて行く上で大きな信用を無くすと考えて、すべての人に
 弁償する事にした。総額では1000万円以上となり、私にはダブルパンチと
 なった。 当然一度払える金額では無い為に借金もする事となり、また
 これを期に仕事の方も上手く回らなくなってしまった。

 人生とは一つ歯車が狂うとすべてが上手く回らなくなってしまう。 借金が
 増え仕事が減り、すべてが悪循環しだした。 簡単に作った貧弱な城が
 崩れ去るには大した時間は掛からなかった。 約半年何とか立て直そうと
 頑張ったが、お決まりの自転車操業が続き、ついに力尽きて手形の不渡り
 を出す事となった。

 自分の形勢が悪くなってくると、今まで身近にいた多くの友人や知人が蜘蛛
 の子を散らす様に自分の周りから居なくなってしまった。

 二度目の不渡り..倒産。 一瞬にして家、車すべての財産を失う。そして
 当然の様に怖いお兄さんが取立てに来る。 私は家族の身を案じ、取り
 あえず妻子は実家に預けて身を隠す。 

 負債総額は約3000万円簡単に返せる金額では無い。 家や車その他
 でも1000万円位にしかならない。

 勿論、これ以上借金等する事は出来ない。今までぺこぺこと頭を下げて来た
 銀行も態度は一変、今度は取り立てに来る。

 友人達も急に冷たくなり接触を拒む。私は本当に力になってくれる友人の
 所へ身を寄せて対策を考えた。 しかし打つ手は何も無い。お先は真っ暗、
 一時は自殺も考えた。 しかし子供の事を考えるとそれも出来ない。 

 私が消息不明になると、うるさい連中は家族や親戚へ行く為に、とにかくまず
 は家族は籍を抜いて他人とした。 そして妻や子供は生活保護を受ける事
 となった。 私はなすすべも無く毎日ふらふらと呆然として、あちらこちらと友人の
 所等を渡り歩く日々が続いた。うるさい所だけでも何とかしなければ..
 
 そんな時友人を介して、私の良いお客さんでもあった大阪の不動産会社の
 女社長から呼び出しがあった。とにかく一度顔を出せと言うことだった。

 私は社長には債務は無かった為に、何か力になってくれるかもと期待して
 事務所へ向った。社長は私の母親位の歳で、いつも色々と説教をして
 くれた。今回も大きな失敗に大目玉を喰らった。

 しかし社長は貴方はまだ若い、やり直しが出来る、私はあんたのバイタイリ
 ティーを買っている。もう一度一からやり直せ! と言ってくれた。

 そして負債はすべて私が話をつけ、片を付ける。その代わり私に一生
 かかっても返済しなさい。勿論利息をつけて...。 と提案してくれた。

 勿論、地獄で仏にあった様で社長にお任せした。 それから約一ヶ月後
 社長より連絡があり、すべては片をつけた、もう一切取り立ては来ない。
 安心して再建を考えろ、 そして私への返済を忘れ無い様にと...
 ただ一年間は猶予を持つ。

 本当にありがたく感謝の気持ちで一杯だったが、これから一体どうすれば良い
 のか? 全くあてが無い、働く所も無い。 何か仕事を見つけなければ...
 しかし世間の目は冷たい。使ってくれる所は何処も無い。 昔の名残りで
 協力してくれる所でアルバイトみたいにスポットで仕事をしたり、質屋の値踏み
 等をして、少しは稼いでいたが、自分が食べるのだけで精一杯の毎日だった。

 母は以前から自分で仕事をしていたが、多くは無いが私の生活を助けて
 くれた。妻は夜に仕事をして生活費を稼いでいた、正美は幼い弟光美の
 食事等の面倒をみていた。妻達は実家にいた為に勿論私達は一緒に
 住むことは出来ず別居状態であった。

 私は相変わらず友人宅等を渡り歩き放浪生活をしていた、そして約1年が
 経ち少し回りの状況が落ち着いて来た時、ちょうど実家の近くで兄の友人
 からの紹介で借家を格安で借りられる事となり、妻子供はそこに住む事が
 出来る様になり、私も時々出入りが出来る様になった。
 

 ラジコンカーとの出会い。
 私は相変わらずフラフラと友人宅等を訪問しながら、今後の事を考えて
 いたある日、鳥取県の米子市日野川のほとりで、ぼんやりと川を眺めていた。
 そこに中学生位の二人の男の子がラジコンカーを走らせに来た。 土手の
 道路である。私は興味深く二人を観察していた。すると二人は大変へたくそで
 かなり広い道にも拘わらず、すぐに道から離れて草むらに落ちてしまう。

 私は見かねて、二人に話しかけた。 君達へたくそだね! ちょっとお兄さんに
 やらせてくれないか? 二人は少し不機嫌そうな顔で私に車を貸してくれた。
 私は勿論トイラジは少し経験はあるが、殆ど始めての操縦である。

 そしていざ操縦を始めると、大変むつかしい! 全く思うように操縦出来ない。
 少年達よりもはるかに下手くそ、二人に笑われてしまった。しかしそれが元で
 仲良くなり、暫くは一緒に遊んだ。そしてどうしてもこの車が欲しくなり少年達
 にどこで売っているのか? 尋ねたところ市内にベニヤ模型店があるという。

 私はこの時は友人宅で世話になっていたが、友人にお願いしてどうしてもあれを
 買いたい。少しお金を貸して下さいとお願いしてお金を借り、ベニヤ模型店を
 尋ねた。小さな模型店だが夫婦で親切に色々と教えてくれた。 この御夫婦
 には未だにホビーショー等でお目にかかり昔を懐かしむ事がある。

 そして勧められたのがタミヤの934だった。 SANWAのミニプロポとセットで
 単2の乾電池で動くものだったが、私にはトイラジの様に左右が一定角度しか
 切れず、またスピードもオン、オフしかないものと違い、プロポーショナルシステム
 で、自由に左右そしてスピードコントロール出来る車に感激した。 そして
 しばらく、なりを潜めていた私のレース魂に再び火が着いた。

 そして暫くの間は、お店に通い色々とアドバイスを受けながら、自分でも練習
 また、少しの改造等を始めていた。 本来はこんな事をして遊んでいられる
 状態では無いのだが...もう夢中になったいた。友人も全く呆れていたが、
 私の性格を良く知っている為に色々と協力をしてくれた。

 そしてラジコン雑誌(ラジコン技術)等でも色々と詳細や、またレース等が開催
 される事を知った。私は京都に帰り模型店を探した、昔から模型が好きで
 鉄道模型等は多くコレクションし模型店は色々と通ったが、家の近くで小さい
 店だがプラネット模型店を見つけて飛び込んだ。ここの店主は皆がお兄さんと
 親しみ、大変多くのノウハウを持ち私にも様々な事を教えてくれた。

 そして色々な改造パーツ等も製作して販売していた。 私も色々と教わり
 軽量化の為に、グラスファイバーでシャーシを作る事等も教わった。幸いにも
 私は昔の仕事でのこぎりが使用出来るために、簡単に色々なシャーシを
 製作する事が出来た。当時はグラス板の材料等は販売されていなかった為に
 グラス製のプリント基板を使用してシャーシを製作した。

 そうしてラジコンにのめり込んでいったのだが、今の私の立場ではこんな事をして
 遊んでいられる立場では無い為に、目立たない様にこっそりと行っていた。
 勿論、家族にも話していない。

 そしてある時米子のベニヤ模型より、近日レースを開催するとの情報が友人を
 通してあった。 私は直ぐに用意をしてバイクで米子へ向った。この時は車は
 すべて失った為に、たまたま車検に出していて手元に残ったバイク、ホンダ
 CB350が唯一私の足となった。

 レースは、米子では初で駐車場での特設コースで開催された。 ロープで簡単
 に作られたコースだった。勿論、AMB等は無い為にストップウオッチでの手動
 計測。 レースもコースを3周とか、簡単なレース。

 私は京都で色々なノウハウを貰っていた為に、かなりのアドバンテージがあった。
 レースは予選から、かなり速く他を圧倒して優勝してしまった。これが私の初
 レース、初勝利となった。 当時はスーパーカーブーム、そしてラジコンブームに
 点火、一気に燃え上がる時であった。レースには多くのスポンサーが付き、勝者
 には大変多くの商品が授与された。このレースだけでも、キット、プロポ、また
 他の多くの副賞が付き、総額では5万円以上となった。

 そして、このレースでは私に始めてラジコンをやらせてくれた少年達も参加して
 いた。私は彼らに感謝の気持ちで多くの賞品の一部をプレゼントした。

 そのすぐ後には今度は鳥取にてレースが開催、殆ど毎週どこかでレースが開催
 される様になり、各レースに参加し連戦連勝する事が出来た。

 そして家の方では妻が兄の仕事で、袋物の縫製を手伝だう事となり、私も
 その手伝いとして仕事を貰う事が出来た。 暫くの間は生地の裁断等をして
 また、ミシンも練習した。以前には少し洋裁学校に通った事がある為に、
 直ぐに溶け込めた。 ブラウスやスカート等は以前に作っていた。

 そして多くは無いが、やっと決まった給料が二人で貰える様になった。しかし
 私には大きな借金が圧し掛かっている為に、私、妻、そして母の3人で毎月
 社長に借金を返すこととした。 毎月30万円、大変な金額だった。しかし
 その後15年間返済を続けた。

 勿論、生活は楽では無かった。子供達も何度も転居した為に、転校も余儀
 なくされ、特に正美は友人も殆ど出来なく、時にはいじめに遭い、とても陰気
 な子となってしまった。たまに私と会っても殆ど口を聞かない状態だった。

 私は子供達へのごますりで、賞品でもらったラジコンカーを与えた。勿論二人
 は、おもちゃ等を買ってもらえる状態では無かった為に大喜びをした。そして
 家の近くの鴨川のテニスコート等で、3人で遊ぶ様になった。これをきっかけに、
 子供達から相手にして貰える様になった。そしてレースでの武勇伝を話すと
 少しは尊敬の目で見られる様になった。 

 休みの日には、いつも3人で練習をしたりレースをして遊んだ、当然私が
 一番速く、この時ばかりは父親の威厳が保たれた。

 そんな生活が少し続いたある日、プラネット模型の兄さんより、今度タミヤにて
 TV番組のびっくり日本新記録の収録を兼ねた、レースが当時唯一のサーキット
 である、タミヤサーキットで開催されるとの事、これに参加しないか? との誘い
 私は喜んで参加を決定、タミヤ934の大改造に着手した。

 ボディはプラボディ、兄さんの指導でこれを裏からノコ刃を少し改造した工具で
 削りとり軽量化する。 200g位のボディが60gにまで軽量する事が出来た。
 そして、シャーシやその他も軽量化して総重量は700gを切った車が完成
 した。当時通常に組めば1kgは超えた。

 関西からは二人の参加となった。 当日は当時1/8で活躍していた、多くの
 ワークスの有名選手が参加していた。私は雑誌でしか見た事が無い有名選手
 に少しびびったが、闘志が湧いて来た。 そして練習が始まると、やはり私の車
 は速い! いきなりクレームが付いた。 重量が軽過ぎると...しかし規定では
 なにもうたっていない。私は食い下がった。たぶんこの時の競技委員長は滝さん
 だっと思う。確かに重量には差があり過ぎる。そこで私達は協議の結果、単3
 電池を4本ウエイトとして乗せる事で和解した。
 これが、私の”ルールメーカー”としての始まりだったのかも知れない。

 そして、いざレースが開始。 レースは、予選、準決勝、決勝と行われる。
 予選はヒートトップで通過、そして準決勝。 スタート前の練習でクラッシュ。
 ステアリングブロックを破損、修理の時間は無い為に、瞬間接着剤で修理。
 そのままスタート、2番手を走行中、何かおかしい? だんだんとステアリングが
 切れなくなって来た、そしてとうとうステアリングが右に切れたまま、くるくると旋回
 リタイア。 瞬間接着剤が固まってステアリング動かなくなってしまった。

 後日TVにこの様子がはっきりと放映された。 広坂選手痛恨のリタイヤ!
 子供達にも良い所を見せる事は出来なかった。

 当時TV番組のビックリ日本新記録は、大変な人気番組であった為にこれに
 放映された事もラジコンブームに一気に火を付けたといっても良いと思う。
 各地でレースが盛んに開催され、またラジコンコース等も各地に設けられる様に
 なった。

 私は相変わらず休み毎に、近県のレースを探してバイクで通った。 また
 正美もバイクの後ろに背負って色々な所へ出かけた。正美は昔から車に乗ると
 義務の様に寝てしまう。バイクでも同じ様に眠る、しかしバイクでは落ちる危険
 があるので眠っても落ちない様に私と正美の体をヒモで結んでのドライブ
 だった。


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