廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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  Vol−8

 正美の初レース
 そして1978年2月、7歳の終わり、そろそろ正美もレースに参加してみるか?
 と提案した。日頃の練習の成果で何とかコースは走れる様になった。たぶん
 よい成績は出せなくても恥ずかしいレースにはならないだろう。正美も今まで
 私のレースを見て、自分も参加したいと言っていた。

 そして雑誌でレース案内をみると、2月19日に広島県の呉にて、マルタホビー
 主催のレースがあり、これには一般クラスと小中学生クラスがあるという。

 私は早速マルタホビーさんに電話をして詳細を確認した。そうすると京都から
 と言うことで大変に歓迎して頂き是非参加して欲しいとの事。しかし大きな
 問題が...それは私達の”足”である。当然車が無い為に、バイクでは私
 一人なら良いが正美と二人では無理である。新幹線しか方法が無いかと
 思ったが、一番の新幹線でも到着時間が遅すぎる。また宿泊するだけの費用
 も無い。

 そこで考えたのが、大阪からフェリーで呉まで行く方法だ、これなら朝一番に
 呉に到着する事が出来る。その事をマルタホビーさんに話すと、呉港まで出迎え
 に来て頂けるとの事で、大変喜びました。

 そしてレースまでの約2週間正美と私は、河原のローラースケート場で練習を
 した。 このコースはもう使用されていないコンクリートのオーバルコースだが、
 一周100m位はあるのだが、コース幅が非常に狭い、幅が5m位しかない。
 このコースを外さずに走行させる事は非常に難しい事であった。

 そして2月18日(土)大きなラジコンバッグを抱えて一路大阪の南港へ向った。
 この時には、すでにいつも家で練習するために私が製作した1/24位のミニ
 RCを持って行きフェリーの中で練習をする事とした。

 正美にとっては勿論始めてのレース参加であると共に、今後果てしなく続く
 遠征レースの第一歩となった。正美は状況は良く把握はしていなかったと思う
 が大変嬉しそうだったのが今でも覚えている。

 夜10時過ぎに大阪を出航し、瀬戸内海を呉に向って航海が始まった。
 私は、以前世界一周航路のキャンベラでの船旅を思い出した。
 勿論、状況は全く違い、かつては豪華客船での船旅、今は車も無く仕方無く
 乗るフェリー、そして多くの人達と雑魚寝のキャビン、これが運命なのか...
 正美はデッキで1時間程1/24を走行させていた。そして眠りに付いた。

 朝7時呉港に到着、クラブの方が車で出迎えに来て頂き、コースへ向った。
 コースといっても勿論常設ではなく、駐車場での特設コースである。 はっきりと
 記憶は無いが、大変多くの人が参加していたと思う。

 私が一般クラス、で正美が小中学生クラスの参加となった。 コースはロープで
 レイアウトされた簡単なコースで、オーバルに少し変形された様なコースだった。
 
 このころのレースは周回レースで、決勝等は無く予選を3回程行い、その中の
 ベストの記録で順位を決める方法が主だった。 
 私の方はかなり余裕を持って優勝する事が出来た。 正美は当時は歳より
 幼く見え、また女の子の様な容姿の為、皆の注目を浴びた。特に大会役員
 の阿部さんが正美を大変気に入って頂き応援をして頂きました。

 レースでは正美は決して速くは無いが、正確なドライビングで皆の注目を浴び
 多くの応援を得ることが出来た。そして3ラウンド終了時では3位となった。
 しかし阿部さんの提案で、皆は殆どコースを無視して走行している。その為に
 コースから外れたら一回に付き3秒のペナルティを課すという条件で、もう一
 ラウンドのレースしようと言う事となった。そして阿部さんは必ず正美は優勝
 する!と言ってくれました。そして最終ラウンドが行われた。正美は2着で
 ゴールしたが他の選手は、コースアウトをした為にペナルティとなり、正美が
 優勝する事となった。

 勿論、私も正美も大喜びで、マルタホビーさん、そして阿部さんに大きな感謝
 をしました。また帰りには、例によって大変多くの賞品と荷物をもって、新幹線
 の駅まで送って頂きました。

 このレースが正美の世界チャンピオンに繋がる第一歩となった。正美も昔の事は
 あまり良く覚えていないのだが、これが自分のレースのスタートであった事は
 大変認識している。

 このレースがきっかけで一度勝ち味を覚えた正美は、次のレースを楽しみに、
 日々練習に励む様になった。友人も無く根暗な性格であったが、ラジコンに
 集中する事で少しの楽しみを感じるようになり、今まで弟の光美に八つ当たり
 していじめる事も多々あったのだが、ラジコンを通して一緒に仲良く遊ぶ事の
 多くなった。 そして約一ヶ月後次は米子のレースに参加する事となった。

 それまで傍目を気にしてかあまり快く思ってくれなかった、ママ(妻)もこの時は
 大変に褒めてくれ。そしてもし本気でやるのなら、真剣に常に一番を目指せ
 と正美にはっぱをかけた。それ以来レースでは優勝以外は全て負けと言われ
 続けた。全日本選手権でも世界選手権でも2位では、”なんや負けたんか?”
 の一言!

 現在、私の家には、唯一つの盾と、一つのトロフィーだけがあります。
 盾は妻がスズカサーキットでもらったヘルパー賞、これはおそらく日本では
 始めて2輪レースで女性が貰った賞だと思います。(当時はレースには女性
 は参加出来なかった。)
 そして唯一のトロフィーは、この呉のレースで頂いたものです。


 始めてもらった、ヘルパー賞の縦、および当時使用していたヘルメット。


 年に一度の耐久レースにて、全チームの中から一人のみ、サイン出しやチーム
 に貢献した女性に与えられる、ヘルパー賞... 初代より3年連続で獲得! その後多くの女性がこのショーを狙って派手なファッションでレースに参加。
 これがレースクイーンのはしりになったのかも知れない。



 当時私が所有していた、CR77 ホンダの市販レーサーで305ccの
 CR77は、15台のみ生産されたが、販売はされなかった。

  

 正美の初レース、優勝のトロフィーとマシン。 ボディはこの時はカウンタック
 でしたが消滅。 その後はフェラリーBBを使用。
 小さなバギーは正美の練習用に、おもちゃを改造して製作。 いつも正美と
 一緒で、バスや電車の中でも走行させて、皆を楽しませていました。
 ウイリーもするし。手作りのギアデフも装着しています。5年以上使用しました。



 正美、光美が常に遊んでいた、ミニRC。黒のパンテラが1/24です。
 小さいものは、モーターはサーボ用を使用し、受信機は半分に切って配線を
 し直して搭載しました。 どこまで小さく出来るか? の挑戦でした。


 1/24は正美の一番の練習マシンで、20年にわたり使用して来ました。



 そして3月11日今度は鳥取県米子市にてレースが開催されるとの事で準備
 を始めた。どうしても車が欲しい! と思っていたところRC仲間のひとりが仕事
 で使用していたスズキのキャリーがもう古くなったので買い換えるとの事、かなり
 古いもので、もう殆ど下取りでは値段がつかないと事で、¥3,000で譲ると、
 これは幸いと譲り受けてその後数年にわたり愛用。 しかし往年にはもう
 かなりガタが来て、3気筒のうち1気筒が動かなくなり、2気筒での使用と
 なった。当然パワーが無く上り坂になると坂を上れなくなる。そこで上り坂に
 なると、二人の子供が飛び降りて車を押す、そして登りきるとまた車に飛び乗る
 といった芸当をする事となった。 これは後々の語り草となっている。

 また貧乏慣れした次男光美は、大変陽気で貧乏を自慢げに面白く人に
 話す事で皆の笑いを取っていた。 僕の家はねえ〜家に入るのに戸を3回も
 開けないと入れないんだよ! だってね家には駐車場がないので、家の前に
 ぴったりと車を付けて停めるから。入り口をふさいでしまう。その為に、家に入る
 時は、まず車の横から一旦車に入り、そして反対のドアを開けて家のドアを
 開けて出入りをするんだ!...と。

 3月10日久々に家族4人で遠出となった。11日のレースの為に前日より、
 米子へ向って出発する、勿論高速道路等は使用しない為に6時間位以上
 掛かってしまう。 一昔前は、中国道を通って京都岡山を50分位で走ったの
 にねえ〜なんて、ママと話ながら...でもいつ壊れるかも知れない車を運転
 しながら、のんびりと行くのも楽しいかも。 ふたりの子供達はぐっすりと寝ている。
 
 米子では、私は過去何度かレースに参加し、すべて優勝をしている。しかし
 正美は始めての参加となる。今回は新聞社も来てインタビューを受ける事と
 なった。

 このレースでも正美は注目の的となったが、前回にもまして素晴らしい走行を
 見せ子供部門で優勝をしてしまった。そしてますます闘志が湧いてきてのか、
 終われば直ぐに次は何時? と聞いてきた。

 そして次は岡山、約一ヶ月おいて今度は岡山へ...調子に乗ってきた正美
 だが、ここで思わぬ壁が...岡山きってのRC少年が正美の前に立ちふさが
 った。 当時正美よりひとつ年上の小学生。それが現在でもトップヂライバーと
 して活躍の浅原少年(当時)だった。小中学生で彼が優勝、そして正美は
 3位となった。まだ始めたばかりだが、始めて感じた屈辱だった。

 ここで正美の闘志に新たな火が付いた。 私にどうすれば上手くなれるの?と
 尋ねた。私はそれは勿論練習あるのみ。と答えた。どうして練習すれば良い?
 そうね毎日ラジコンを触る事かな? 

 それからと言うものは、毎日練習と言うわけでは無いが、何かラジコンを常に
 さわっている毎日が続いた。そして週末には駐車場や広場で空き缶を並べて
 練習をした。

 そして次のレースは京都での自動車教習所での大きな大会に参加。ここでも
 優勝する事が出来た。この時もクラスとしては、小中学生クラスでの参加で
 あったが、同じコースを走行する一般クラスでは私が優勝したが、正美は
 私を上回るタイムを出し皆を驚かせた。

 そしてその後も広島、鳥取、大阪、京都、とほぼ毎月レースに参加して連勝
 する事が出来た。

 使用した車は私が殆ど自作した車だった。その為に周りの友人達が車を欲し
 がった為に、少しづつ製作をしてビジネスとして少しのお金を稼ぐ事が出来た。
 当時ではメーカーの車に比較して、非常に軽量でシンプルな為に、レースでは
 大変速く、多くのユーザーが購入してくれた。これを手作りだが、M−78と名付
 量産を始めた。 その後約1年で200台位製作した。

 この頃から正美は自分でレースに勝つと車が売れる!と自覚してきた様だった。
 そしていつも ”ママ、僕が世界チャンピオンになって家を買ってあげるから!”
 と言っていた。(まだ実現していないが...笑)

 1978年は、13回レースに参加して、3位が一度、それ以外はすべて優勝と
 いう結果を得た。
 
 そしてこの年には大阪門真市に門真ラジコンが、関西では初の常設コースを
 オープンした。我々はここをホームコースとして、この後のレース運営や練習を
 する事となった。

 地元の新聞にも紹介された。



 車だけでは無く、ボートやポケバイ等もやっていた。 エンジンボートで
 ゴムボートや普通のボートを引っ張り、琵琶湖を周遊した。



 おもちゃのトレーラーを改造して、リフトやクレーンを作動させる。10chで
 稼動する。 走行中の車を吊り上げたりリフトを降ろした走行中のトレーラーに
 飛び乗ったりして遊んだ。




 レース用のマシンだけでは無く色々なテストを兼ねた、面白カーも製作。
 その中で少し凝ったフォーミュラーカー。



 ステアリングと連動した可変ウイング。 結果が良ければレースカーに採用。
 と思ったが、ある程度の効果はあるが、クラッシュで破壊してしまう為に強度に
 問題有り、で不採用。



 ブレーキランプも装着、下のボックスがスイッチBOX。 装置は箱の底の前側
 に銀板を2枚貼り付け、中に鉄製のボールが10個ほど入っている。ブレーキを
 かけると、ボールが前の2枚の銀板をショートさせて、ランプを点灯させる。
 停止中はランプは点灯し、発進するとボールが後ろへ転がり、接点から離れる
 という仕組み。 結構上手く行った。



 ボールリンクのダブルウイッシュボーン、サスペンション。 これが後に4独サスの
 アルフ−1 に繋がった。



 フロントもやはり、ダブルウイッシュボーン。 すべてが軟弱でレースには使用
 出来ないが、サスペンションカーの良いテストにはなったと思う。




 1979年より、大坂門真ラジコンサーキットにて本格的なシリーズレースを
 開始した。毎月レースを開催し年間を通じてのシリーズ戦とした。
 この頃から、全国的にラジコンブームが広がり、毎回大変多くの参加者が
 集まる事となった。 また雑誌等でも色々と記事で地方のレースや状況等も
 掲載される様になった為に、遠くからの参加者も多くあった。
 特別なイベント等では300名以上集まる事もあった。

 当時多くのドライバーが使用してくれた、M−78。 リアーグリップを確保する
 為に、大きなウイングを装着し顰蹙をかった。(笑)
 フロントバンパーのサイドには、ミニ4駆の様なガイドホイールを装着。
 その後”零−1”の製作販売に移行する。



 1981年より ボークスより販売された、零−1


 右より、1/24、1/20、1/12 とラインナップ


 ラジコン仲間達(門真ラジコンサーキットにて)


 二人とも子供が大好きで、赤ちゃんを見つけては、おもちゃにして遊んでいた。
  

 CHICKEN RACING CLUBを結成し、会報を発行。
   

 チームでの関東遠征練習の報告書



 そして、この年の初め京都で新しく模型店を始めた、ボークスの社長より依頼
 があり、小さな1/30、1/24の車を販売したいとの申し入れがあり、ABC
 ホビーより、以前販売されていた1/20様のパーツを譲り受けて、ミニカーを
 製作し販売を始めた。 ボディはプラモデルで社長が自ら塗装しすべて組立済
 で、ミニチビという名称で発売した。これが大ヒットをなり、後にABCホビーの
 1/24の製作に繋がる事となる。ボークスはプラモデルやフィギアを中心として
 始めた模型店だが、ラジコンにも興味を示し、我々に話を持ちかけて頂いた。

 これに気をよくして、次は本格的にレーシングカーを製作しようと言う事となり
 従来のM−78の発展型の製作に取り掛かった。これまでは殆どのパーツは
 既成品の寄せ集めだったが、今回は初めてオリジナルのパーツを製作する事と
 なった。モーターマウントやバッテリーホルダーは、プレスで製作、ホイール等も
 プラネット模型にて削りだしのものを製作してもらった。

 こちらも、ボディはアソシエイテッドのフェラリーBBを使用し、これもすべて社長の
 塗装、そして車はRTR(全て完成)として発売する事となった、シャーシ等は
 私の手切りなので毎日、製作に追われて大変だった。しかしやっと本格的に
 収入を得られる事が出来る事となり気合が入り、疲れなどは言っていられない
 状態となった。毎日シャーシや部品の製作、そして組み立て等に追われたが、
 これも大変好評で、大変多くのユーザーが予約し完成を待って頂いた。

 零−1に付属した、マニュアル。 これもすべて社長の手書き(図、文字共)で
 大変良く出来ています。 セッティングマニュアル、パーツリストもついている。



 零−1の試作車から、多くのシリーズ。何タイプ製作したのか? 分からない。
 合計では、500台以上製作したと思う。


 特徴的な、銀板スピードコントローラー。 これは6段変速。基盤及び接点は
 純銀を使用。 抵抗を変える事で途中の変速率を変える事が出来る。
 後には、抵抗をプラチナ線を使用し、焼けないものが出来たが、価格が...



 リアーシャフトはグラスファイバーを使用、横にはスラストベアリングを使用。


 ステアリングブロックは、ナイロンから削りだし、シャフトはグラス。
 上下にはスラストベアリング。



 正美が使用していたボディ、フェラリー512BBとポルシェ。



 1980〜1981年にかけては、ミニチビ、零−1の製作、及び関西地域での
 レース活動に明け暮れた。 そしてミニチビの素材として、ABCホビーより、
 多くの種類のパーツの供給を受けていたが、かなりの数量が出る為に、ABC
 の社長(先代)より一体何を作っているの? との問い合わせがあり、ボークス
 にて1/30位のミニRCを製作販売をしていると話をしたところ、まだ多くの
 パーツの在庫があるのでこれを利用して何か新しいものを製作出来ないか?
 と言われた。

 そこで私が提案しのが、1/24レーシングだった。この頃はミニRCと言えば、
 1/20スケールだったが、これのブームも長く続かなかった。大きさが中途半端
 で外のコースでは小さく、室内コースでは少し大きいと言う事が原因のようで
 あった。
 しかしその後サーボ等も小さなものが販売され受信機もかなり小さくなった。
 そして何よりも一番の利点はプラモデルのボディが1/24では多く販売されて
 いて、またスロットレーシングも1/24サイズでポリカのボディが多く販売されて
 いる。これらを利用出来るのが最大のメリットと伝えた所、よし!ではこれを
 製作しよう! そして基本設計を私にやれと言う事となった。

 そして勿論私はただのマニアで専門的な知識は無い為に、ABCホビーの
 技術者と組んで、1/24の製作に取り掛かった。1/24は構造的には
 大変シンプルなので、設計としては差ほど難しくはないが、走行性能は
 シャーシー形状に依存する事が多い為に、多くのシャーシを試作して正美が
 連日テストをした。

 そして試作が完成し、ほぼ私も満足が出来るものが出来上がった為に、いよ
 いよ量産に入った。 初回ロットは1000台、そして主なパーツ類は約2000
 台分ある為に、2000台完売すれば良いかな? と言う事でスタートした。

 シャーシーは、0.8mm厚のグラスファイバーを使用する為に、これはプレスで
 抜く事とした。 しかしこのプレス型の製作が遅れて、発売予定が大幅に遅れる
 見込みとなった。しかしこの車はホビーショーで発表した為に、すでに多くの注文
 が入っていた。そこで社長の提案で、”廣坂君、シャーシ1000枚を手切りで
 切れ無いか?” えっ、手切りですか? うん、君なら出来るだろ。そりゃ出来
 ますが...でも今回はプレス型と言うことでシャーシには4箇所の透かしがある。
 これが大変なのだ。

 何時までですか? 一ヶ月でどうだ。一日30枚以上..は、はい、やります!
 後で家族皆に叱られることとなった。 いつも直ぐに安請け合いするから...
 しかしそこは廣坂家の家族、普段はバラバラだが何か問題が起こると一致
 団結する。 4人でシャーシ作りが始まった。私と正美がシャーシを切り、妻と
 光美がノコ刃を交換する。 この連携作動で、当初は一日20枚位しか出来
 無かったが、終わり頃には60枚位出来る様になった。

 そして約束通りシャーシが出来た頃には、注文で殆ど最初のロットが完売と
 なってしまった。そして今度は組み立て、箱詰め等の為にABC本社へ夏休
 みを利用してアルバイトに行った。 これがABCホビー1/24ロイヤルシャシー
 となり発売が始まった。

 そして、当初は2000台売れれば良いと言う事でスタートしたのだが、
 予想以上に売れ、直ぐに在庫のパーツが無くなり、新たに増産と言う事と
 なった。これを機にABCホビーは、今まではボートが中心で車は少なかったが
 もう少し車にも、力を入れようと言う事となった。その後1/24は一種の
 ブームとなり、多くのメーカーが製作する事となった。

 これがきっかけとなりABCの社長には大変色々な事を教えて頂きました。
 勿論、私が以前ビジネス等で失敗をしたことも話した。社長はいつも私を叱り
 ました。 時間とお金にルーズな人間は絶対に成功しない! と怠慢な私を
 叱りました。しかしいつも家族の様に優しく色々と指導もして頂きました。
 
 一方1/12のレースも少しマンネリ化して来た様子だが、世界選手権や
 日本選手権が開始され、これらのニュース等が雑誌にて掲載される様になって
 来た。そして当時のGPカーでのスーパースターであった、石原直樹選手が正美
 の憧れで目標だった。折りしも岡山のレースに初対面する事が出来た。
 彼はメーカーからの特別参加でレースには出場しなかったが、正美の走行を
 見て、”君上手だね!” と言ってもらったのが、大変嬉しかった様だ。

 将来ビッグレースに参加を夢見て、新しいマシン作りにも精を出した。
 そして、1982年5月に早くもそのチャンスが訪れた。全日本選手権に参加
 出来る事となった。EPの全日本選手権は過去3回行われているが、これは
 殆ど関東のみで予選等も無く殆ど事前にしらされていなかった。

 そして全国規模で予選より全国から募集をする始めての大会が、8月中京
 競馬場で開催されるこの大会となった。まだ組織も出来ていない為に関西
 では予選は無く、有力模型店よりの推薦となった。そこで正美は多くの模型
 店より推薦され、参加資格を得る事が出来た。

 勿論、我々にとっては始めてのビッグレース参加となるのだが、殆ど情報も無
 くルールも良く分からない。雑誌等の記事が唯一の情報であった。
 また、この年からEPの世界選手権が始まった。多くの日本選手も参加する、
 様であった。そしてこの時から8分間レースとなった。それまでは、殆どの所が
 周回レースで予選3周、決勝5〜10周、長くても3分程度のレースであった。

 そして我々は8分間のレースに取り掛かったが、あまりにもノウハウが無さ過ぎて
 何をやっても、8分間は走行出来ない状態だった。レースまでの約3ヶ月
 何か策を考えなくては...


 KYOSHOの2輪レーサー、大変面白く、レースもやっていた。
 塗装は、たかたに塗装。

  

 全日本選手権を目指して、開発を進めたプロトタイプ。 多くのパーツは
 ポリカーボネート板からの切り出し。



 フロント周りとリア部。 非常に軽量で総重量は630g位で仕上がった。


 全日本選手権に初参加したマシン。 自分なりの様々なアイディアが...


 ボディの固定は、直ぐにボディピンを無くす為に、ピンを使わずに、ボディの穴に
 差し込んで固定。横は動かない様にスポンジで押さえる。



 フロント部は、ピンを1本のみ使用。ボディピンは1本だけなので簡単に着脱
 可能。



 シャーシーは、テフロンファイバー(軽量で柔らかい)他の骨組みは、ポリカ板を
 切り出し。 バッテリーはパックタイプをフレームの間に入れてタイラップで固定。
 リアーには、オイルダンパーを装備。



 フロントサスペンションは、擬似ダブルウイッシュボーンで、センターのアッパー
 アームでキャンバーを調整する事が出来る。



 自慢?のサーボセーバー、とにかくクラッシュでよくサーボを壊した。
 サーボ交換はサーボーホルダーにサーボを取り付けるだけ。



 衝撃吸収バンパー。可動式バンパーでシャーシとの間のスポンジで衝撃を防ぐ。


 製作する為の幼稚な図面。 軽量化の苦労の跡が見られる。



  そしていよいよ全日本選手権初挑戦となる...

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