廣坂 物語
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−9
全日本選手権 初参加
全日本選手権参加が決定して以来、勿論我々は8分間レースのノウハウ
を得るべく、テスト練習を続けた。
しかし情報も殆ど無く、全く未知の世界であった。全日本選手権の前には
アメリカにて第1回の電動世界選手権が開催されるとの事。 勿論我々は
参加する事など出来ないが、多くのワークスチーム等が参加すると聞いた。
全日本選手権においては勿論各メーカーのワークスチームが参加し、有力視
されている。私は以前の2輪レース等でもワークスチームとプライベートの差は
いやと言うほど知らされていた。
雑誌等でも殆ど我々にとって有用な情報等は無かった。我々は自分達自身
で未知のまま進むしかなかった。
一番の問題は、8分間を速いスピードで走行する事が出来ない。当時レース
界ではトップを走る、AYK(アオヤギ)のモーターを使用してテストをするが、
8分間を走行しようとすると、とんでも無く遅いスピードとなってしまう。
マシンは、従来のスプリントに比較して、パワー、スピードとも遅くなる為に
大きなハンディは無いのでは無いかと思った。 そしてあえてメーカー車は使用
せずに、自分達がアピール出来る様に、ワンオフのプロトタイプを使用する事と
した。
バッテリー、そしてモーター等、色々とテストを続けるが、全く良い結果が出ない
レースが近づき良策が見出せない。まあ我々の実力からすると仕方無いか?
と半ば諦めかけた時に、そうだバイクのレースでも給油をする、ピットインをして
給油(充電)をしてみてはどうか? と考えた。 そして送られてきた規定書を
良く読んでみると、バッテリーに関しては殆ど何も規制が無い。充電をしては、
いけないとの規則は無かった。
よし、こうなれば最後の手段で充電をしよう! と途中充電のテストを開始
した。 6分間ならかなり速いスピードで走行する事が出来る。 そして
6分過ぎに、12V直接で10秒位充電をすると、約1分30秒走行する事が
可能だった。 ピットストップ及び充電で約15秒、ほぼ1周弱のロスタイムと
なるが、仲間達とテストをした結果、充電した方がほぼ1周近く多く走行出来
る事が実証された。
そして、何度も何度もピットストップ、充電の練習をくり返した。
8月29日(日) 名古屋市中京競馬場第1駐車場特設コース
いよいよ、全日本選手権の参加、我々は大変緊張した中でレースを迎える
事となった、雑誌で良く見るワークスの選手達、私は遠くで眺めているだけ
だった。 そして凄い威圧感を感じた。
そして開会式が行われ理事長の挨拶、今まで参加してきたローカルレース
とは違い威厳を感じた。そして競技の説明があり、その後に車検となった。
車検は、競技委員長の石神氏が行っていた。 車を持ち込み、委員長に
あの〜質問ですが...レース中にピットインして充電しても良いですね?
はぁ〜?? 充電ですか? はい! ..そうですね、充電してはいけないと
いうルールは無いですが...やるのですか? はい、そのつもりです!
そして車を検査しながら、これは何ですか? それは受信機用バッテリーです。
バッテリーの持ちが悪いので、別電源で少し省エネします。 はあ〜??
違反ですか? いや規定はないです。 この時は1/24に使用していた、
50mAのニッカドバッテリーを受信機用として使用した。
他の選手はすべて、メインバッテリーよりの電源を受信機用と共用していた。
そしていよいよレース開始。予選は2ラウンドそして、準決勝、決勝という
スケジュール。 予選では、まずは様子見という事で充電はしないで、そのまま
の状態で走行する事にした。 さすがに周りの選手達が我々が見た事も無い
スピードで走行する。 しかし正美も決して走行ではひけを取っていない。
スピードさえ速ければ、何とか善戦出来そうな雰囲気だった。
予選は通過し次は準決勝、こちらも2回のタイムで上位8名が決勝進出と
いう予定だったが、途中雨でレースが中断、その為に準決勝は4組の上位
2名ずつが決勝進出という事となった。 準決勝第4レース、正美はムゲンの
小野選手と一緒の組となった。
これはこのレースでの正念場の為、充電作戦を実行する事となった。レース
開始、正美は気合の走行で小野選手を追う、そして途中小野選手を抜き
トップに立つ、この時は6分仕様の為にスピードも速い。 そして運命の6分
過ぎトップのままピットイン、当然小野選手には追い着かないが、3位の三瓶
選手の前へ出られば決勝進出となる。 この時点で三瓶選手とは約半周
以上の差を持っていた。
ピット後私は三瓶選手を見ながら、その前で出す様に充電時間を数えて
いた。8秒以上充電出来れば何とかなる...そしてほぼ8秒、三瓶選手が
コーナーに差し掛かった所で、ゴーサイン! 正美は50cm位の幅のピット
ロードを全開で走行始めた。と、その時、なんと他の選手の助手がピットロード
の中に立っていた。 そして助手に激突、コースアウト。
万事休す!! 直ぐにコースに戻ったが、三瓶選手は彼方へ...結局は
3位、決勝進出は出来なかった。 私は作戦通り行けば決勝に残れた可能性
があっただけに大変悔しい思いをした。 そして始めて二人で泣いた。
レース後、正美は表彰式の後で、誰もいない表彰台を見つめ、ぽつりと
あの表彰台にのぼりたかった。 と呟いた。 よし必ずあそこの一番高い所に
登らせてやる! 私は心に深く誓った。
レース後、雑誌にて我々のマシンが紹介された。
50mAの受信機用バッテリーと充電ジャック(右)これがボディから出ている。
ラジコンマガジンの記事 (文字の拡大は下)
全日本選手権初挑戦は惨敗となったが、色々と話題にのぼり、我々の存在
をアピールするには、十分な大会となった。
レース中に皆を驚かせたのは、予選中トップを走行中の正美が最終コーナー
でスピン、直ぐ後ろには2番手の選手がいたが、正美はそのままバックで直線を
走行し、次のコーナー直前で再びスピンターンをして、何事も無かった様に走行
を続け、2番手の選手にも抜かれなかった。 これが皆を驚かせた。
このレース後、次回よりバッテリーの充電は禁止された。
そして今回の正美の健闘を一番評価して頂いたのが、双葉電子の重役の
K氏でした。是非正美をサポートしたいと言う事で、この後のプロポのサポート
を約束して頂けました。一時期フタバの広告に掲載されていました。
それまでは、プロポはJRのお世話になっていました。
京都 サクラ サーキット KSC
少し話は前後する事となるが、1980年初めに昔のレース仲間のお兄さんが
経営する自動車修理工場の2階が空いているので、何かに使わないか?
と言う提案があった。 そこで私は自分の仕事場と1/24のサーキットを作る
事を考えた。 1/24は正美にとっても良い練習となる。毎日コースで練習を
する事が出来る。
そして近くの小さなマンションを借りて、家族皆で住む事が出来る様になった。
全部で30坪位のスペースだが、仕事スペースも取りコースとしては十分だった。
少しずつお客も増え、1/24や1/12の車を売れるようにはなったが儲かる
所までは行かなかった。
サクラサーキットの名前は、義父(妻の父)は著名な染色図案家で知る人ぞ
知る大先生だった。そして色々と私にもアドバイスをくれた。後には大きな大会
の時の正美の衣装はすべて義父が手書きで描いてくれた。後の世界選手権の
衣装等は、200万円で売って欲しいと言う人も現れた。
この義父が、名前はお前達はこれからは、世界に出て行かなければならない。
(この時は、まだ全日本にも出た事が無かった。) 桜は日本の国花だから桜を
名前にしろ、と言われた。 ではサクラホビーにしようと決めて、ABCホビーの
社長に相談をした所、サクラホビーはすでに存在するので良く無い。
お前の所はコースがあるのだから サクラサーキットにするのが良い!
はい、そうします。 これで決定した。
開店後は、家(マンション)とコースの往復で、朝出勤して車を作りながら、
コース営業をする、子供達は学校が終わると店に来る。そして夕食は店で食べ
夜には家に帰る。当初は夜10時までの営業だったが、仕事が終わってから
来るお客も多く、どんどんと営業終了が遅くなり、朝まで営業と言うことも多く
なった。
私と正美は日曜日等は、レースへ出かける事も多く、その時はママが店番を
する事となった。そして、お客さんが来た時等は、お相手になる為に専用の
マシンを用意した。実はこの車がいつも一番良い車だった。速くないと怒ります。
この様な生活が暫く続いたが、やはり借金も大きく我々の上にのしかかり、利益
もあまり出なく、またレースにも大変お金が掛かる為に、貧乏生活は変らない。
このままでは、やって行けないと言う事でママが兄夫婦の仕事をアルバイトでする
事となった。兄夫婦は私の姉とママの兄が結婚している。我々は義兄弟同志
の結婚という事になる。
義兄は、父と同じく染色図案家で姉がかばん等の製作販売をしていた。
すべて手作り商品でかなり好評であった。そして私も時々配達等も手伝う事
もあった。
そして翌1981年約1年半コースを継続したが、借金や家賃が大きく採算が
取れなくなり、コースへ閉鎖、そして市内でやはり知り合いの紹介で小さな借家
を借りることが出来、ここでコースは無いが、小さなショップだけで営業をする事と
なった。
ショップと言っても一般商品は殆ど無く自分達のオリジナルと一部のメーカーの
商品だけを扱う店だった。小さなスペースだが、トロフィー等が多く陳列して
いた為に、当初はトロフィー屋と勘違いされてトロフィーを下さい、と訪れる客も
いた。
そして、私自身もこの店だけではやって行けない為に、ママと一緒に姉の所
で兼業で働く事をなった。主な仕事は内職や外注への配送等だが、忙しく
なると製造が追い着かなくなるので、布の裁断やミシン縫い等も行った。
ミシンは私の母は洋裁関係の仕事をしていた為に、小さい時から少しは使えた
また、結婚後暫くの間洋裁学校に通った事もあった。
そして内職のおばさん達と一緒に仕事をしながらかばんを作り、夜には車を
作る...この様な生活が続き、そして全日本選手権を迎える事となった。
当時私の名刺は無く、正美の名刺のみ製作した。
京都サクラサーキットのステッカー
KSC で販売していた1/24の型。 ひろさか方式は図面は無くすべて
グラスや樹脂で現物大の型を製作。それを元にグラスやカーボンにケガキをして
手切りのノコで切り落とす。
TYPE−11からは、ダブルデッキとなりアッパーデッキが付いた。
骨だけの1/24シャーシ。重心を下げる為に、サーボはシャーシにはめ込む。
ABCホビーで、1/24と同時に販売されていた、1/30シャーシ。
1/24オフロード。これがベースとなり。ABCホビータンブラーが完成。
ポリカーボネートのロールバーを装着して、転倒しても起き上がるのが特徴。
リアーは2段減速。 フロントはトレーディングのサスを装備している。
新たな挑戦。
全日本選手権では、大きな悔いを残す事となったが、やはり自分達の想像
以上のワークスの実力には敬服したが、我々の闘志に大きな火が点いた。
そして直ぐに来年に向っての準備を開始した。
1/24で順調な売上をあげているABCホビーより、この機を利用して本格的
な1/12レーシングを製作したいとの打診があった。私もメーカーで本格的に
製作出来るチャンスなので是非やらせて下さいとお願いした。
そして、同じ製作をするのであれば、他社のあと追いするのでは無く、世間を
あっと言わせる様なものを作るのが良いのでは? 私はかねてから自分でも
製作したかった、4輪独立懸架を作ってはどうか?と提案した。
1/12ではまだどこのメーカーも製作していない、早く完成すれば、世界初
という事で売り出せる。そして社長の同意を得て製作に取り掛かった。
サスペンションは本格的はダブルウイッシュボーン、試作は殆どポリカーボネート
を手切りで製作し、ユニバーサル等アルミ等の削りだしパーツは高谷模型の
高谷さんにお願いした。
そして近日には、ホビーショーがある為に出来れば、この時にプロトタイプを
展示して、アピールをしたいと考えた。 その為に急ピッチで試作を製作。
大半のパーツが手作りの為に頑張れば短期間が製作する事が可能だった。
約2週間でプロトタイプが完成したが、その間何日も徹夜が続いた。
そして、かなり奇抜な4独マシンが完成し、ホビーに展示する事が出来た。
見た目も綺麗なポリカ製でスケルトンなので、多くの人はアクリルでの製作で
走行は出来ないだろうと言われた。 しかしこれはポリカ製で大変丈夫な為
十分に走行に耐える事が可能だと考えた。
この時点では、多くの人はポリカはボディ等には使用されているが、この様に
車の素材等として使用する事等は考えていなかった様だ。私は幸運にも
親戚がプラスティックの加工屋をしていた為に、様々な樹脂を入手する事が
出来た。
ただ、ポリカの加工は結構難しく、またヤスリが殆どかからない為に、細いノコ
で切った後は、ヤスリ等で修正が出来ない為に、殆どは切りっぱなしとなる。
メインの骨組み等は片側で5時間位の時間を要する。
試作が出来、その後走行テストを開始する。 意外と想像以上に良く走る。
これはこのシステムで行けるかな? と思わせたが...
意外な落とし穴があった。 それはルールでタイヤの幅が規制された事だった。
勿論フロントは問題は無いが、リアーはこのシステムだと何処までが幅とみなされ
るのだろう? まず2本の幅を合計して計算してくれる事は無いだろう。
タイヤの両端で幅とするならば、タイヤの幅は相当に細くなってしまう。
ルールを確認しようにも、何処へ問い合わせて良いのか分からない。そして
聞けばまず間違いなくダメだと言われるだろう。 と判断して、このシステムは
断念して、リアーもオーソドックスな、ダブルウイッシュボーンタイプで進める事
とした。 そしてまた一から構想を練り始めた。
当時の私の教科書。 1960年代のFIの設計や基本構造等が詳しく紹介
されている。
4独、第1号車の基本のプロトタイプ。これは走行用では無く、パーツ等の
配置の確認の為のベース。ジュラコンの切り出し。
プロトタイプ第1号車。これはホビーショーにて展示、その後走行テストを開始。
最初のベースから、プロト完成まで約2週間で作りあげた。(ショー展示の為)
フロントはダブルウイッシュボーン。 アッパーアームピンにはベアリングを装着。
リアー部は独特のシステム、タイヤを2分割して間にアームを入れる。
トレーディングタイプ。 キャンバーの設定をしなくても自動的に接地するのが
特徴。
殆どのパーツはポリカの切り出し。 リアーウイングは角度の調整可能。
デフはギアデフ。
ショー後、かなり走行テストをした。結構良く走ったが、一つ重大な問題が
浮かびあがった。
NEW 4独カーの製作開始。
ショーが終わり、一応の反応が感じられた為に、新しいマシンの設計に取り
掛かった。 これはABCホビーの市販モデルも考慮した設計となる。ABC
ホビーでは、HERO(ヒーロー)と命名され、私の方では、ALF(アルフ)と
名づけた。 アルフは私達の愛犬でピレニアンマウンテンドッグで白熊みたいな
大きな犬で、私達が結婚後にすぐに家族となりその後正美の乳母犬となり
正美の遊び相手だったのだが、私達の不手際で不幸にして若くして他界して
しまった。
そして、私達は正美の守り神として、ビッグレースの時はいつもアルフと正美の
写真をボディの内側に貼り付けてレースに参加をしていた。
12月頃には試作車も出来、走行テストを開始した。同時にABCホビーの
ほうも、市販に向け量産体制に入っていった。 当初は同じ所からスタートは
したが、アルフはやはり量産にはいろいろと難しい部分もあり、ABCではかなり
の部分がモディファイされて、最終的に兄弟だけれど、かなりイメージの違う車
となった。 アルフ−1もハンドメイド車として売り出しを開始した。
当時販売価格は¥45,000とかなり高かった。しかし1台製作するのに、
頑張っても最低3日間はかかり、月に10台製作するのは大変だった。
そして、ローカルレースに参加しながら、マシンを煮詰めて改良を加えていった。
これまでは、ただ何となくレースを追いかけていったのだが、今年からははっきりと
した、全日本選手権という目標が出来た為に、全てはこの年一度のチャンスに
向って、生活までも変ってきた。
ワークスへの挑戦! これは非常に難しい事だが、私は考えた。勿論ワークス
には多くのメリットがある事は事実だが、必ずどこかに弱点もある筈...
その弱点を突けば、我々にも勝機はある。 ワークス(メーカー)では、多くの
テストをする事が出来、また費用的に多くの予算を使用して色々なテストが
出来る。しかし小回りが効かない。 例えば良い事が見つかったり、欠点等が
発覚しても場所や状況によっては、直ぐに対処出来ない事も多くある。
しかし我々は、直ぐに対処する事が出来る。1週間もあれば、NEWマシンを
製作する事が出来る。 常に最新の状態でレースが出来る事が我々の最大の
武器だと考えた。
そして、ALFも直ぐにモデルチェンジを繰り返した。ほぼ一ヶ月に1タイプのペース
で進化させた。 8月の全日本選手権には、タイプ−7まで進化した。
勿論多くは無いが、販売もしていた為に、パーツ等も用意しなければならない
のだが、全てを揃える事が出来ない為に、注文が来てから製作をするという
様な状態だった。
全日本選手権等でもパーツを用意出来ない為に壊れやすいアーム等は、
ポリカ板をけがいて、穴だけを開けておき、現場でのこぎりでカットする様な
事もした。
ALFの幼稚な図面。 TYPE−1〜7までが4独。
簡単な図面だが、自分だけが分かれば良い。
こちらは、ABC HERO の図面、全く違う。 複雑です!
時々雑誌にも紹介された。
テスト車のシャーシー等は少しづつ形状を変えながらテストをして進化させて
行く。(写真は4独のものでは無い)
ALFのシャーシー 上はTYPE−1 下がTYPE−7(全日本用)
リアーエンブレム、これはうしろから追突された時のガードになる。
上、ALF−1 下、ALF−7
フロントバンパーは3mmポリカ製。 ガードに当たると跳ね返る様な設計。
発泡ポリエステルのバンパー、現在のツーリングカーに多く採用されている。
バンパーの下の角の様なガードはバンパーが下へ曲がらない様に支える。
アッパーデッキは、4mm〜2mm厚のポリカ製、これも色々と製作した。
これは、衝突の衝撃を吸収するための形状に苦労した。
レース等では、けがいたものを持って行き、現場で切り出しをする事もあった。
当初は、主に5mm厚のポリカを使用していたが、軽量の為に4mmに変更。
サスアームピンも3mmパイプから、2mmピアノ線に変更。
4mm厚モーターマウントに3mmのビスをねじ込む。メーカーでは絶対に
出来ない(やらない)加工だ。
ステアリングブロックは10mmポリカより切り出し、シャフトはグラスファイバー。
ALFは少しづつ変化していった。
最初の頃のALF−1(正美車)
フロントは、フリクションダンパーを装備、スプリングはピアノ線のトーションバー
タイプ。
リアーもフリクションダンパー。スタビライザーも装備。ボディマウントはハブキャリア
に取り付け、トラクションが直接タイヤへ掛かる様にした。
シャーシには正美の文字の透かし彫り。
TYPE−1からTYPE−2へ...
フロントのダンパーは、グラスプレートに変更。 サーボもミニサーボを使用。
リアデフは、当初はABC製を使用していたが、より軽量、小型のタミヤ製に
変更。
レース直前にALF−7が完成。 2回目の全日本選手権への挑戦。
写真は全日本選手権使用車
1983年は当初よりすべての力を集約して、全日本選手権を目指した。
4独のALFは、やはり駆動ロスが大きく不利だと言われた。勿論私もそれは
認識していた。ただでさえワークスに比較するとスピードは極端に遅くモーター
バッテリー等も比較にならない程の差がある。しかし我々にはそれらを入手する
事は出来ない。スピードではどうしても勝てない。それならコーナーで勝つしか
無い! 私は考えた。
そして当時のAYKやアソシ、ムゲン等はすべて3Pである。 これは構造も
簡単だし、軽量でスピードも速い。しかしコーナーリングにおいては分からない。
我々に可能性があるとすれば、これしか無い。と思い開発を進めた。勿論確証
等は無かった。
ただ、今までの3Pに比較すると、コーナースピードは速い事は確かだった。
モーターも我々には有効なものは無い、モーターはプラネットの兄さん(社長)が
540をベースに巻き変えをした物を使用していた。AYKのモーター等もテストで
使用したが、やはり我々にとっては8分間は大変事であった。今年はもう充電
は出来ない。(笑)
そこで今度は高谷模型の高谷さんが、新しいモーターを考案した。これは、
マブチの550をベースにカンを少しカットして、エンドベルはAYK製を使用する
と言う荒技だった。ローターが長い為にトルクがあり、4独に適しブラシは交換
出来るものとなる。我々にとってはこれが最良のものだった。しかしこれもレース
後には禁止される事となる。(ルール: モーターのハイブリットは禁止)
そしていよいよ、8月27日全日本選手権に向って出発した。
車には、ミニ旋盤、ボール盤、フライス等が装備されたいた。
Vol−10 へ...