廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

 ***********************************************
  Vol−10

 二回目の全日本選手権 挑戦!


 昨年の全日本選手権では、正美は12歳(中学1年生)で最年少参加。 
 中学へ入り、例によって少し反抗期を迎える事もあった。全日本選手権に
 参加する前は今までの反動か? 又レースのマンネリもあってか、あまり
 レースをやりたがらなくなり、時々反抗する事もあった。私はあえて、レースや
 ラジコンを強制する事はしなかった。そしてやりたくなければ何時でも止めれば
 良いといった。そして日曜日等は練習に行かずに友達と遊びに行く事もあった。

 私は練習は強要しないが練習をしない時は、どうせ良い結果が出ないの
 だからレースには連れて行かない。 と言った。そして私は運営も兼ねている
 為に一人でレースに行くと... 正美は黙って友人達と遊びに出かけた。

 勿論、私は本気でこれまでラジコンばかりをさせて友達もいないし、殆ど他の
 子供達の様な遊びをしなかった。そして陰険な性格の為に学校ではいじめに
 遭い、その反動で弟の光美をいつもいじめる事が多かった。
 私はやはり子供には普通の子供達の様に、色々な遊びをする方が良いのか?
 と考えた。学校の成績も良く無く。担任の先生も色々を心配をしてくれた。

 そしてレース(月例レース)前日、私は一人で行くつもりで準備をしていたら、
 ママがこっそりと私に、正美がレース行きたいと言っていると告げた。自分では
 言い難いから、ママに頼んで欲しいと事だった。

 勿論、私は直ぐに了解をした。そしてその時に始めて正美と少し話合った。
 正美は私達の為にレースをやる必要は無い、私達は正美が本当にレース
 をやりたければ、精一杯の応援はする。今後の事は自分で考えて判断を
 すれば良い。 と言った。

 それ以後は正美は練習やレースをさぼる事は無かった。そして暫くして始めての
 全日本選手権を迎える事となった。 これで大きな目標が出来、正美の性格
 も少しづつ変化してきた。 そして学校でも全日本選手権に挑戦する様に
 なってからは、担任の先生も大変協力的で、疲れて授業中に居眠りしている
 事も多かったが、授業の遅れや出席日数の不足等は、補習やレポートで補う
 様にして頂いた。

 そして最初の全日本選手権参加後は、悪友達も応援をしてくれる様になり
 正美自身も今までとは違った雰囲気で、練習に励むようになった。

 そして積極的に地方のレースにも参加し、一部のワークス選手等と対戦する
 事もあった。 そしていつも私に、何で僕の車のスピードは遅いの? と聞く。
 確かに、ワークス選手に比べると、比較にならない位遅い。 でも私は正美に
 いつも言っていた事は、ワークスのスピードはお金では買えない。もし買えるの
 なら、借金してでも買ってやる、これを手に入れるのは、自分しかない。
 本当に実力が認められれば、向こうから勝手にやってくる。それまでは一生懸命
 頑張るしか無い。

 ストレートが遅い分だけ、コーナーで速く走れば良い。私の見た限りでは、彼ら
 は確かに上手いけれど、常にスピードに任せて走っているためにコーナーリングは
 差ほど上手い様には見えない。正美も究極を目指せばもっとコーナーは速く
 なる可能性があると思う。 コーナが速く走れて、速いスピードが得られれば、
 怖いものなしとなる。
 とにかく遅いスピードで皆の前に出なくても良いから着いて行け、と言った。

 全日本選手権
 そしていよいよ、全日本選手権に向って出発。 昨年の全日本選手権以来
 自分達なりに様々な事をやって来た。我々は関西在住の為、情報が非常に
 少ない、関東などには殆ど行く機会がない。せいぜい中京あたりが限界で
 こちらのほうから、色々と情報を集めようとするが、殆ど有効な情報が無い、
 今回の会場は千葉県の中山競馬場の特設コースで行われる。

 私達のマシンは、アルフ−7 昨年来、開発、販売を進めてきた、アルフも
 タイプ−7まで来た。 多くの車を壊し、やっとここまで来た、どんどんと詰まって
 くるワークスカーに対抗出来るのだろうか? 4独は駆動系の関係でやはり
 スピードは遅い、しかしコーナーは速い。 全てが未知の世界だった。

 そして、レース開始...
 昨年の全日本選手権は、一日でのレースだったが、今回は二日間のレースと
 なった。一日目に予選が3回、二日目には、予選一回、準決勝2回、そして
 決勝1回というスケジュールだ。勿論私達は二日間のレースは始めての経験と
 なった。

 そして、レースが開始されたが、進行の都合で一日目は予選が3回の予定が
 消化出来ずに2回となり、あと2回は二日目に回された。

 全国より110名の選手が参加、今回からは各地区で予選が行われで、選抜
 されて来た精鋭揃いだが、有力選手は殆どが関東となった。

 予選が開始された。予選は6名もしくは、7名のタイムレースとなる。この頃の
 スタート方式は横一列の同時スタートだ。 正美はいつもスタートの練習をして
 いる為に、スタートタイミングは抜群でいつも一番に飛び出して行く。

 そして、やはり直線は非常に遅い、 仲間達が正美可愛そう! でもこれは
 しょうがない。 しかしコーナーは非常に速い。コーナーリングスピードだけだと
 トップクラスの速さを持っていると思う。 そして今回のコースには大きなシケイン
 が2ヶ所もある、これが曲者でフェンスが木製の為、接触するとマシンが大破する
 危険性がある、このコースでは、このシケインの攻略が大きく結果に左右した様
 に思える。正美はシケインは大変に得意としている、殆ど全開でフェンスギリギリ
 で走行を続ける。 

 そしてコーナーでは、ほんとにひやひやするほどインを攻めてくる。
 私の見立てでは大変調子よく、マシンの状態も良い。我々の作戦通りのレース
 が出来ている。 勿論レースでの注目は、各ワークスの選手達で、殆ど誰も
 正美には注目しない。

 しかしラウンドが終了すると、いつもかなり良い順位にいる。これは上手くすると
 準決勝には残れそうと思った。そして二日目の予選終了時にはかなり上位で
 予選通過をする事が出来た。準決勝は、30名中上位の8名だ、これは非常
 に難しい。たった8名というとワークスの有力選手だけでも、これ以上居る。

 準決勝も6名5ヒートでのタイムレースとなる。多くのワークスメンバーが脱落
 していく中、正美はだんだんと調子を上げて行く。そして結果的には、4位で
 予選通過という快挙となった。 ラップタイムでみると他の選手は皆正美より
 速い選手ばかりだが。正美は殆どノーミスで走行する。
 決勝もあまり他を意識せずに、自分の走行に徹すれば良い結果が出るだろう。

 決勝は一発勝負、スタート! やはり大本命でそして予選もダントツのトップの
 石原選手が抜け出す、そして直ぐ後に最後尾からスタートの高麗選手が
 2位に浮上、正美もすぐその後の3位につける。しかし、上位の2名は異常に
 速く、とても着いて行け無い。スピードもとてつもなく速い、しかし正美は淡々と
 自分のペースで走行を続ける。私はただ黙って見ていたが、心の中でそうだ、
 それで良い! とつぶやいていた。

 レースは石原、高麗選手の激しいバトルが続き、アナウンス、また観客の注目
 もすべては二人に集中。我々は全くレースには参加していない様子だったが、
 私は正美の走行しか見ていなかった。

 そしてレース終盤には場内大歓声のもと、レースが終了した。皆が大騒ぎを
 していたが、私には何も分からなかった。またレース中のアナウンスも二人だけで
 それ以下のアナウンスは無かった為に、正美の順位は分からなかった。
 私の見た限りでは恐らく3位に入っているのでは?しかしなかなか結果は発表
 されなかった。
 
 そして今回のチャンピオンは、石原選手を僅差で抑え優勝した、高麗選手
 だった。殆ど無名の選手で、KYOSHOの4駆での優勝だった。彼は正美
 より一つ年上の14歳だった。 まさに衝撃的な優勝だった。

 そして正式結果発表。 やはり正美は3位に入賞と言う事となった。勿論
 私達仲間は大喜び、しかし正美は勿論喜んではいたが、何か心に感じるもの
 があるように感じた。彼の心中では、やはり優勝しか無かったのか?

 ママになんて言う? ママは優勝しか勝ちで無いという。 いいじゃん、あっさり
 負けたと言えば? ママは褒めてくれると思うよ。 

 そして、もう直ぐに気持ちは来年に向っていた。


 モデルジャーナル誌(ラジコン技術の車部門)には、こんな投稿もあった。
 

 始めて大きく雑誌にも取り上げられて、”有名”になった。
 今回は、4WD、3P、そして4独サス、コントローラーも巻き線抵抗、アンプ
 基盤スイッチ、(プラチナ線抵抗)と3種3様となった。







 大変難しい特設コース。


 送信機に注目! 殆どの送信機がスティックタイプ。

 レースの展開等が詳細にレポートされている。 殆どの選手は”地面ピット”

 
   アルフの事にもふれられている。

  

 参加者の詳細リストが掲載されている。 この頃は雑誌社も大変真面目に
 データ収集をしていたと思う。




  参加者のデータの分析もされていた。
  

 ラジコン技術、ラジコンマガジン、モデルジャーナルの3誌が記事を競い合った。


















  

  



 選手の写真と名前が入れ替わっています。(笑) (4位と5位)




 レース後には...




 翌月号からは詳細記事が掲載。















 KSCコントローラーは、プリント基盤に純銀板を貼り付けて切り込みを入れて、
 変速段数を決める、抵抗はプラチナ線を使用。プラチナ線は大変抵抗が大きく
 勿論発熱するが、真っ赤になっても溶ける事は無い。グラスチューブで保護。
 横の小さな抵抗を交換する事でブレーキの強弱を調整する。



 たかたに製、SPLモーター。 マブチ550のカンにAYKのエンドベルを装着。
 ローターはマブチ。巻き線は勿論巻き替え。



 かくして、今年の夏も終了。早くも来年に向っての対策を考え始めた。
 4独を継続するか? しかし現状ではもう殆ど自分のアイディアも出尽くした。
 やはり、4駆が良いのか? よし、まずは4駆を研究してみよう。

 そしてレース終了後すぐにファントムを購入し、それを参考にして4WDの
 製作にとりかかった。 駆動系等は、ファントムのものを使用してシャーシ等を
 オリジナルで製作した。

 そしてABCホビーでも4WDを製作発売する事となった。この頃はもうすでに
 ABCホビー独自の開発を進め、3Pマシン等も発売していた。勿論私達も
 協力関係にあり、私達はKSC、およびABCチームとしても活動していた。

 あまり知られていない、 KSC 4WD


 駆動系はファントムのものを使用。 ワンウエイも流用。


 フロント部のシャーシ細くして、シャーシを捩り、この捩りをダンパーで制御する
 事で、アンダーを解消した。



 シャーシはブラックポリカーボネート。かなりシンプルに仕上がった。


 4WDは販売せずにプロトタイプのみで終了した。



 4WDのテストを続けて行くと、確かに速くてグリップも良くアドバンテージを感じ
 られた。しかしここで私が4WDを採用すると、やはりあと追いの物まねとなって
 しまい。自分自身の中では負け犬となってしまう。 自分のプライドが許さない。
 
 そこで、4WD、また4独両者の欠点とも言える駆動のロスを最小限に抑える
 には、リジット(ダイレクトドライブ)の2WDが一番有利と考えて、もう一度サス
 カーを考え直す事とした。

 しかし、こちらとて従来から他のメーカーがやっている方式では面白く無い。何か
 違った方式を色々と模索した。フロントは4独で採用したダブルウイッシュボーン
 が非常に良く曲がる。こちらは駆動ロスにはならない。そしてリアーのシステムを
 色々と考えた。 従来は殆どがシャーシの捩れをサスペンションとしているものが
 大半だ。そこで4独では無いけれど、シャーシより独立した。サスペンションを持つ
 機構を考えた。

 色々と試行錯誤しながら、ようやく3Pサスともいえる、新しいシステムの試作が
 完成した。 早速走行テストをしたいと思い。仲間達を集めて試走会をしよう!
 と近くの駐車場へ5、6人で行った。

 じゃ、まずは正美から走行開始。 皆が注目する中、勢い良くスタート! 
 何と、車がいきなりジャンプ! 何??? 皆が目を疑った。 どうしたの?
 僕、何もしていないよ。 アクセルをあげると、車がかえる飛びの様に飛び上がる。
 え〜?? これは大失敗。3Pのセンターのポイントの位置を間違った様だ。
 しかしこれだけの事で、こんなふうになるなんて...皆で大笑いをしてプロトの
 テストは、30秒位の試走で終了した。

 それからは、また教科書とにらめっこしながら、色々と考えてALF−8のプロトが
 完成した。今度は同じ失敗は出来ない為に、私自身でまずは家の前の道路
 で少し走行させる事とした。誰もいない早朝に、恐る恐る走行させてみた。
 今度は大丈夫、まっすぐ加速する。真っ直ぐしか走れないが、前回の様な事は
 無いだろう。そしてまた日曜日に、特設コースにてテストをする事となった。
 
 今度の試走では、正美はかなり良いフィーリングだと言った。動きがとても軽い、
 4駈に比較すると、やはりグリップ力は少し落ちるが加速も軽くトップスピードも
 速い。

 4WDを追いかけても、やはり本家のKYOSHOのノウハウには至らないだろう。
 私はあと追いをするのでは無く、まわり道をして前へ出る方法が良いと思った。
 そして、この車を煮詰めて次期戦闘機としよう! と心に決めた。そしてマシン
 を煮詰める為にも販売するのが一番と考えて、改良型のALF−9を発売した。

 ALF−8及び9のパーツの型の一部。 1mm厚のポリカやグラスで型を作る。
 これを元にして厚みのある、ポリカを切り抜く。



 ALF−8では、リアー周りを大幅に変更、リジットアクスルとした。


 フロントまわりは実績のある、ALF−7のものを改良。


 リアーサスペンションは色々と試作をした。


 そして、販売可能なALF−9の誕生となった。


 フロントはかなりワイドになった。


 リアーシステムは少し複雑だが、かなり良い効果が得られた。


 ボディマウントもポリカの削り出し。ミニ旋盤で製作。


 モーターはブレを防ぐ為に、後ろからも支える機構。



 ALF−9 もほぼ煮詰まり、今年の3度目の全日本選手権挑戦にはこれで
 行こうと調整に入った。そして全日本選手権の会場が発表された。何と東京
 新宿のNSビル内に特設のカーペットコースを設置して行われるとの事。

 勿論、我々はカーペットのコース等殆ど走行した事も無いし、練習する所も
 無かった。 しかしこの年の正月より、兄の仕事の関係で京都の大きな
 ボーリング場にて、正月にはボーリングの待ち時間が出るので、その間にお客を
 退屈させない為に、ラジコンのレンタカーをしてはどうか?という提案があり、
 サクラサーキットも閉鎖したのでコースも無かった為に、練習も可能となる為に
 引き受け、家族全員で正月の間、特設コースを作って1/24のレンタカーの
 営業をした。

 そして、かなり来客の評判が良かった為に、当初は正月の10日間位の約束
 だったが、その後も土日に営業してくれないか?との要望があり、その後も約半年
 続ける事となった。ここは京都でも最大級の1フロアー100レーンで、かなり横に
 長いスペースがある。そしてレーンの手前のスペースはカーペーットとなっている。

 このスペースの一部を使ってコースを作り営業していたのだが、このスペースを
 使えば立派なテストコースとなる。私はマネージャーに交渉して営業前の1時間
 程を1/12のテストにフロアーを使用させて貰う事に成功した。

 このマネージャーは、以前は東京の超有名なホテルの部長をされていたが、
 ヘッドハンティングで、こちらへスカウトされ、レジャー部門を確立された実力者で
 従業員達には大変恐れられていた人である。

 ある時、忙しい時の為に学生アルバイトを雇ったが、少し勤務態度が悪いという
 事で、全員即日クビにしてしまった事もある。

 我々も常にビクビクしていたが、我々家族が特に子供達が皆が楽しく遊ぶ正月
 に早朝から一生懸命に仕事をする姿を見て、いつも褒めてくれて大変に協力的
 で、我々が日本一に挑戦し続けている事を知り。色々な所で協力をして頂き
 ました。 私達がアスファルトの駐車場で走行させたいと言うと、忙しい時でも
 駐車場の半分位を閉鎖して、練習コースに提供して貰ったりもした。

 当初は、他の社員達の顰蹙をかったが、あの部長がそこまで肩入れする家族
 だから...という事で次第に皆が協力的となっていった。ボーリングが暇な時は、
 プロのインストラクターが、正美にボーリングのコーチをしてくれたりもした。

 フロアーは直線にすると、100レーンだから少なくとも100m以上はある。
 幅もかなりあり格好のカーペット練習場となった。

 全日本選手権に向ってマシンの煮詰め、そして練習を続けていった。
 この時期では、おそらくカーペットコースを練習出来る選手は非常に少ないのでは
 ないかと思い、我々には大きなチャンスだと思った。

 本格的なコースではないが、マシンの挙動やタイヤのテスト等をするには十分な
 場所だった。

 当時使用のプロポ

 JRPROPO APEX 当時飛行機用が主だった、JRPROPO。 正美の
 為に、作られたといっても良いプロポ。



 こちらはFUTABAよりの、サポートプロポ。 PCMとなっているが内部はFM。


 当時はバンドは27MHが1〜6バンド、そして40MHでA、Bの2バンドで
 合計では8バンドしかなく、決勝レースも8名でしか走行出来ない。
 また決勝レースでは、予選順にバンドが選べる為に、予選下位だと27から
 40MZの変更等も出来ないと、決勝に参加出来なくなる。



 正美の手が小さい為にスティックを短く加工した。 上部のギザギザは手加工。



  こんなミニコミも発行されたいた。
  



 ローカルだが、大変良く出来ていた。 雑誌より面白い。


 レース結果も詳細に記載。


 ここでの注目?は、やはり裕美子! NO−1ドライバーよりうるさい。
 車が真っ直ぐに走らないと。カミナリが落ちる。 お〜い車が右が曲がらへ〜ん!
 スピードが遅い! 等、いつも文句をいっている。 しかし、上手い、速い...
 あの名メカニック?もこの人のお陰で鍛えられたのかもしれない。



 インタビュー記事も...






 私へのインタビュー。













 そして、全日本選手権が近づくとABCホビーより、提案があり当時ABCホビー
 が発売していた、3Pマシン、コブラを全日本選手権に使って貰えないか?という
 提案があった。
 
 この頃からシャーシ等の素材としてカーボン板が使用される様になって来た。 
 しかし、カーボン材は簡単に入手出来るものでは無かった。私はABCホビーより
 購入する事が出来たが、カーボン板は手加工しようとすると大変時間が掛かる。
 しかし素材としては軽くて強く大変魅力のある素材だった。

 ABCホーではこのカーボン板を使用したマシンをすでに製作していた。設計の
 コンセプト等は少し違うがテストをすると非常に良く走る為、またカーボンで多くの
 パーツを作ることも時間的にも非常に難しいと判断して。コブラを少し自分なりに
 改造して今回の全日本選手権に参加する事とした。


 1984年 全日本選手権
 8月17日より、新宿NSビルのイベントホールにて、全日本選手権が開催された。
 会場は大きなビルのイベントホールで吹き抜けの会場にカーペットが引かれた
 特設の大変立派なコースとなった。 私はこの会場を見た時に少しびっくりすると
 共に、さすが日本では一番大きな大会である事に威厳を感じ、また別に大きな
 プレッシャーも感じた。会場は吹き抜けの為に、上階からも観戦が出来、多くの
 観客が観戦する事が出来る。

 ただ広さ的にはコースを設置するのが一杯な為に、ピットエリアは地下に設け
 られて関係者にはレースが見られない不便さもあった。

 今回は日程は3日間となり、1日目は練習、2日目は予選2ラウンド、3日目は
 予選1ラウンド、準決勝、決勝というスケジュールとなった。今までは練習ヒートは
 無かったが、今回から練習が出来る為に、セッティングや作戦がたてられ、また
 ライバル達の動向もみられる。

 今回は私達は京都でのカーペットのテストがかなり出来た為に、少しの自信が
 あった。そして昨年のチャンピオン高麗選手は、1/8世界選手権参加の為に
 全日本選手権には参加出来なかった。

 ただ今回は特別参加として、全米チャンピオンのジョエル・ジョンソン選手が
 参加する事となった。これがこの後ライバルとしてのちのちまで続く最初の出会い
 だった。勿論当時は全くの情報も無く、実力も何も分からなかった、ただ年齢が
 正美より一歳上の高麗選手と同じ16歳である事に驚いた。

 一日目の練習が始まった。出足は好調、カーペットのテストが功を奏し早々と
 速いラップを出す事が出来、順調な滑り出しで開始した。他のワークス選手は
 意外とラップタイムが出なく苦戦をしている様子だった。 今回はひょっとして?
 と思わせる快走だった。

 そして一日が終わり都心の中でのホテルに泊まり、我々田舎者仲間達は、
 新宿の賑やかさに圧倒されたものだった。

 そして2日目予選開始。正美は第1ラウンドでいきなり素晴らしい記録を出した。
 他の選手のタイム等をみると準決勝進出はほぼ確実だと思えた。そして今回の
 レースより予選トップの選手は、準決勝をとばして決勝へシードされる事となった。
 2日目を首位で終えた我々は色々と決勝へ向っての作戦を考えていた。

 そして3日目最終日、昨日はトラブルやクラッシュで結果が出せなかったジョエル
 選手は、最終ラウンドで脅威的な記録をたたきだしTQを獲得した。
 そして正美は予選2番手となった。しかし、ジョエル選手は特別参加で今回は
 賞点外と言うことで、TQは正美という事となり、決勝へシードされると言う報告が
 競技委員長より伝えられた。

 これは大変にラッキーでモーターやバッテリーの手持ちも少ない我々はあと決勝の
 一回に絞れる、また準決勝の間に時間もあり、ゆっくりと整備や準備が出来る。
 またレースの進行も遅く、準決勝は2ラウンドから1ラウンドに変更された。

 そして昼休みをはさみ午後から準決勝が開始された。私達はのんびりと決勝に
 むかっての準備を始めた。正美はコースへ行きレースの観戦をしていた。
 
 すると突然、競技委員長より準決勝へ出てください! 何っ? さっきはシード
 だと言ったではないですか? その後も心配で大会委員長でもある理事長にも
 確認をした。 しかしジョエル選手は賞点外だが予選は別と決まったとの事。

 勿論、我々は準決勝の準備等していない。バッテリーの充電もしていない。
 こんな状態でレースは出来ないと抗議をしたが、受け入れられない。
 そして準決勝はどんどん進行された。 そんなバカな! 私は憤慨したが、
 準決勝に出なければ、決勝には進めない。大慌てで準備をして仲間に正美を
 探して伝える様に頼んだ。

 そして、急遽準備をして準決勝に望んだ。バッテリーはすでに充電されていた、
 仲間の選手のものを借りた。 レースを観戦していた正美も急遽ピットに戻り
 大変びっくりして、また怒っていたがどうしようも無い、とにかくレースをしなければ..
 準決勝がスタート、正美はやはり動揺があったのか?予選の様な良い走行が
 出来ずミスも出て結局は準決勝を通過する事が出来ず、ここで敗退となった。

 これで、また我々の一年が終わった。 私は悔しさと腹立たしさで決勝レースを
 見る気にもならず。ピットで怒りをこらえていた。 これが全日本選手権なのか?
 私は、もっと厳格で威厳があり公正なレースが全日本選手権だと思っていた。
 私自身はこの状況の中でどの様な、いきさつがあったのか?は知る由しも無いが
 一気にJMRCAへの不信感が募り、これからの戦いはライバルだけでは無く、
 協会とも戦わなければならない。と心に決めた。

 ABC コブラ3P 
 フロント周りは、HIRO(4駈)のダブルウイッシュボーンを使用。大変良く曲がる。



 ラジコンマガジンの記事












 レース後には、例によってマシン等の紹介がされた。






 
 かくして、またもや涙を呑んだ全日本選手権だったが帰りの車の中、もう済んだ
 事は仕方無い、私の頭の中は来年に向っていた。  

 レース中には殆ど見る事が無かったが、ジョエル選手が使用したマシンのデルタ
 の詳細を後日雑誌等でみて大きな衝撃を覚えた。 Tバーを使用した3P
 システム、そして振り分けタイプのバッテリー。 私には全く考えも及ばなかった。
 改めて世界の大きさを認識させられた。 もっともっと勉強をしなければ...

 しかし今回は、私は一つだけだが自分達のアイディアが成功した。それはタイヤ
 に縦溝を入れるグリーピングと言われているものだった。これは特にカーペットでは
 横滑りの防止に効果がある事がテストで分かっていた。 また溝は金切りノコ刃で
 タイヤを回して溝を入れるのだが、この深さが非常に重要である為に、データの
 無い人達には真似が出来ないだろうと思った。

 来年はどんなマシンを作れば良いのか??

 Vol−11 へ...