廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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  Vol−11

 光美のデビュー。



 
 常に正美の陰で隠れて殆ど日の目を見る事が無く。毎回全日本選手権の
 予選には挑戦するが、もう一歩の所で敗退。 関西では全日本選手権の
 出場枠が5名しか無く。これに数百名が挑戦するために、出場権を獲得する
 ことは大変な事だった。

 正美ですら楽観を許さない為に、いつも全力を正美に集中する為に光美
 には十分に手が回らないのが実情だった。

 そんな光美に絶好のチャンスが訪れた。それは今年から採用された新設の
 クラスであった。 J2クラスとされ、全日本選手権参加者等を除外した、
 アマチュアクラスの全日本選手権だった。

 そして開催場所も、全日本選手権と同じ東京のNSビルでの開催となった。
 このレースでは、正美は参加出来ない為にすべての力を光美に集中する事が
 出来る。そして同じ場所で全日本選手権を経験している為にデータもある事
 で大変有利となった。

 NSビルでは全日本選手権の嫌な思い出があるので、あまり気が進まなかった
 が、光美にとっては大変良いチャンスでもあり、またこのレースにて10位以内に
 入ると翌年の全日本選手権にシードとなる。

 そしてレースでは勿論正美も色々とアドバイスや応援をして、見事マスターズ
 となり、全日本選手権の出場権を確保する事が出来た。今まであまりレース
 等には興味を示さなかった光美だが、これで気を良くして少しはレースにも
 気が入る様になった。しかし相変わらずの練習嫌いで、いつもゲームに没頭
 する事は変らなかった。

 光美が J2レースに参加したマシン ABC アパッチ J2K


 光美カラーのボディ。 塗装はたかたに塗装。


 兄弟対決の期待?


 始めてメディアに大きく取り上げられた光美。


















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 1985年 

 1985年全日本選手権 今年の開催場所は大坂、万国博覧会会場にて
 特設コースでの開催と決定。常設コースでは無い為に地元の有利と言うのは
 無いが、やはり地元での開催だと応援団も多く、レースもやりやすくなる。

 昨年はマシンはABCコブラ改を使用したが、やはりワークスに挑戦!という
 私の目標から、もう一度オリジナルマシンを作ることに挑戦しようと決心した。
 ただこれからは、カーボン板が主流となる為に、量産は難しく極少量のみの
 製作とする事となった。そして再び手作りマシンのALF−10の製作に取り
 かかった。

 7月8月の全日本選手権を控えて、ラジコンマガジンより事前情報が掲載
 された。

















 全日本選手権挑戦4度目、ようやく雑誌等でも情報に取り上げられる様に
 なって来た。 今回のマシンはコブラ3PSとなっているが、これはコブラのパーツ
 を多く流用して、私が製作したALF−10だった


 全日本選手権 開催

 8月8日、早朝全日本選手権会場である万博会場へと向った。ここは
 1970年に万国博覧会が開催されその後もエキスポランドという名称で
 遊園地のみが残されて、正美、光美等が好きで何度も訪れた所だった。
 小さい頃、エキスポランド と言えなくて、エキストランボと言っていた。

 レースは、9日から練習が始まるが、今回は大阪支部のホストという事で我々も
 コースの設営等を手伝う事となった。

 ここは自宅より1時間少しで通える距離ではあったが、やはりホテルに泊まる
 事で気分も変り、ビッグレースに参加するという緊張感が得られる為に、あえて
 会場の近くのホテルに宿泊する事となった。 しかしこれがあとでレース人生
 最大の失態をする事となった。

 8月9日は、受付後練習が行われた。昨年に引き続きカーペットコースでの
 レースだが、屋外でのカーペーットは始めてで、かなりフィーリングが違い、皆
 少し戸惑いがあった様だ。

 今回こそは何とか優勝を狙いたいと大胆にも考えていた。マシンも高麗選手
 と同じ4WDを使用しようかとも思ったが、やはりオリジナルを使用したいとの事
 で、コブラ3PS改のALF−10を使用する事となった。

 そして練習での結果はあまり良く分からなかったが、まあまあであとは出たとこ
 勝負かな? と言うような状況だった。 ただ私は全日本選手権を出場を
 重ねる度に少しずつ上位に近づく事で、正美自身も従来には無い大きな
 プレッシャーを感じる様になり、ドライブにも緊張が見られる様になって来たのが
 少し気がかりとなっていた。

 8月10日いよいよ大会一日目予選が開始される。ここまで準備等で私の疲れ
 もほぼ極限に達していた。 ホテルで目が覚めた時、時計を見て驚愕!
 8時を過ぎていた。 大変だ!8時から受付開始。ここからは20分くらいは
 かかる。ビックリして隣で寝ていた正美をたたき起し、大急ぎで会場へ...

 もうすでに受付は終了し予選が始まる所だった。組合せ等は昨日に決まって
 いる為に、今日の受付は参加の確認程度だったが、危うく棄権とされるところで
 理事長にお願いして何とか参加を認めて貰った。 周りの仲間達も大変心配
 してくれた。こんな時に現在の様な携帯電話があれば、もっと早く教えて貰えた
 かも知れない。 これ以後はレースの時には必ず2個以上の目覚まし時計と
 仲間達と目覚めの確認を取る事とした。

 そして辛うじて予選に参加する事が出来たが、この様な状態では、事前の
 準備も不完全で、正美自身も相当の動揺があり、全く良い所が無く終わって
 しまった。また光美に至っては、1ラウンドは準備が出来ずキャンセルとして
 しまった。

 最初につまずくと全てが後手後手となってしまう。 このままでは優勝どころか
 決勝進出も危うい。もう光美にも何もしてやる事が出来ない。彼もミスが
 連続して後ろから数えたほうが早い所でうろうろしている。

 そして第2ラウンドでは、順位を12位まで上げたが、まだまだ本調子では無い、
 決勝は8台のみだ。私も正美も動揺していた。もう光美どころでは無い。私は
 光美に、すまん!今回はもう諦めてくれ、と頼んだ。光美も何も文句は言わ
 ずにお兄ちゃん頑張ってと応援してくれた。
 
 そして何も解決策が見つからないまま、第3ラウンドが開始された。あとは
 正美の運に頼るだけ...

 第3ラウンドが始まると何か空模様が怪しくなって来た。 これは来るぞ!
 皆避難の準備を始めた所、激しい夕立が降って来た。勿論レースは中断。
 カーペットは水浸し。レース続行は不可能と判断された。 そして今日のレース
 は2ラウンドまでは成立で、明日は別の場所で新たにコースを作るという
 前代未聞の案が出てきた。

 パンチカーペットは水に濡れると、ボロボロになり使用出来ない為に、レイアウト
 はほぼ同じで、アスファルトのコースを作ろうと言う事だった。


 8月11日(日) 決勝日
 昨夜は一昨日の失態の為に、友人より目覚まし時計を借り、目覚ましを
 3つ、そして用心の為ホテルにモーニングコールをお願いしたが心配で眠れず
 結局は一睡も出来なかった。

 今日は遅れない様にと6時には会場入りをした。そしてオフィシャルの判断を
 待った。結果昨日からのカーペットでのレース続行は可能と判断された。
 そして大会委員長でもあり、関西支部長の朝田氏より、特に今回の役員は
 関西勢が多い為に、皆に別の場所にコースを作れるか?との問いがあった。

 よし移動だ! 我々は一斉に動いた。この辺りは関西気質、文句は多いが
 一旦決まると、何も言わなくても皆一致団結して事を進める。 常に常設
 コース等が無く、駐車場等で特設コースを作っていた我々は、慣れたもので
 あった。瞬くまに新しいコースが完成してしまった。

 そして昨日には2ラウンドの予選は成立しているが、ベストラップ方式では、
 この結果が全く意味が無くなるという事で、これまでの結果を活かせて、ヒートを
 組み直し、GPカーレースで採用されている勝ち上がり方式が取られる事と
 なった。

 8名ずつのヒートから、3名の勝ち上がりとなる。私達は勿論この様な方法は
 始めての体験となった。正美は予選では、12位だった為に、Aグループ、そして
 準決勝と2回勝ち抜かなければならない。各レース間のインターバルは16分間
 これは電動では大変な事だ。

 光美はこの時点で122位、Fグループとなり、ここから勝ち上がって行くのは、
 もう不可能と判断。見切ってしまった。

 そしてAグループ(準々決勝)では、4位までが上位進出。レースは4分間。
 まずは少し危ういが何とか3位で通過、そして準決勝。決勝は8名で予選
 の1、2位は決勝へシードされている為に、各ヒート上位3名のみの通過と
 なる。正美はどんどんと調子を上げて来た。やっと本来の正美らしい走行が
 出来るようになって来た。
 そして準決勝では、高麗選手との同組となったが、正美が1位、高麗選手が
 2位となり総合で3位での決勝進出となった。 

 いよいよ決勝、これまでシードされていた選手は走行回数が少なくコースが
 変更された為に不利の様に思えた。予選を勝ち抜いて来た選手は路面
 状況等が良くわかっている為に有利となる様に思えた。

 決勝レースは、1ラウンドのみそして横一列のスタートだ。いつもスタートには
 自信を持っていた正美はいきなりトップに躍り出て快走する。高麗選手は
 少し出遅れたようだが、直ぐに上位に上がって来た、しばらくはトップを走行する
 が、やはりプレッシャーか? 凡ミスをしてしまった。そして高麗、真田選手に
 抜かれ3位を走行。高麗選手は後続をどんどんと引き離して行った。正美は
 3番をキープしていたが、今度は2位の真田選手がクラッシュをして、2位に
 浮上、そしてそのままゴールとなった。

 正美は一度のミスを大変悔やんだが、私は残念ながらもしあのミスが無かった
 ところで、正美は高麗選手には勝てなかった。終わってみれば高麗選手は、
 全車を周回遅れとしている。まだまだ我々の力は遠く及ばない。今の実力は
 ここまでだ。と言った。正美は妙に納得した様だ。 よし来年こそは! 

 ママはおめでとうとは言わなかったが、良かったね! と...そして3位、2位
 と来たのだから後はもう優勝しか無いね?


 最終結果


  フタバのカタログにも時々掲載して頂きました。


 今回使用したボディは選手権での最初で最後となった、パパデザインの
 パパ塗装だった。 左はABC、右にはマサミの文字を描いてみた。
 


 コブラ3PS こと ALF−10


 ALF−9より引き継いで来たリアサスシステムをさらに改良。モーターマウント部
 が上下とロール方向に自由に動く構造。ダブルダンパーとカーボンスタビで
 ロール調整等を行う。



 フロント部は、コブラのものを使用。フリクションダンパーとカーボンプレート
 サスペンションで、プログレッシブ効果を出す。そしてフロントはステンレスの
 スタビを採用(カーボンはソフト、ステンレスはハード)
 3mmアルミ六角ビスは、たかたにオリジナル。



 4mmのカーボン棒をヤスリとサンドペーパーで細く加工したサスアームピン。
 気合が入っていた。



 フロントダンパーはグリスの粘度のみで調整する、フリクションダンパー


 リアーもフリクションダンパーだが、キャップの締め具合でOリングを締め付けて
 硬さを調節する事が出来る。



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 雑誌の記事


























  

















  



  









 またしても涙を呑んだ85年だった。 しかし明らかに前進はしているという実感
 は感じる事は出来た。 ただやはり関西では情報が非常に少なく、関東の方
 へも出て行かなければ、ならないのか? と感じていた。

 しかし資金的に大変苦しく、レース参加も年々少なくなって行くのが、大変
 心配だった。

 そして、翌1986年春、大きなニュースがほぼ同時に二つも入って来た。
 一つは、今年からオフロードの全日本選手権が開始される事。 もう一つは
 1/12の世界選手権にJMRCAがツアーで選手を募集し、引率してくれる
 という事だった。

 オフロードは私は個人的にはあまり好きではなかったが、全日本選手権となると
 やはり参加したほうが良いと思い、とりあえず予選だけでも参加しようと思った。
 しかしオフロードカーは何も持っていないし、レースにも参加した事は無い。

 しかし、チームの仲間が、2WD、そして4WDを持っているので、これを我々に
 貸してくれるとの事で、レースの時だけ借りることとなった。 マシンは2WDは、
 KYOSHOのスコーピオン、そして4WDは同じくKYOSHOのオプティマだった。

 そして世界選手権参加...勿論私達は参加したい。しかし先立つものが..
 費用は一人ツアーで20万円以上、色々と他の物を含めると100万円は必要
 との事。勿論我々には借金はあっても、お金は無い。 これ以上借金も出来
 無い。 でも行きたい...



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