廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

 



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 Vol−1

 主な履歴 1947〜1970

 1947年(昭和22年)11月12日 京都市中京区にて誕生。
 二条城の近くに親戚3軒と同居。4歳の時に父が病気にて死亡
 その後、姉二人と母の女系家族の為に女の子の様に育つ。

 小学校は、5年生まで京都中京区の教業小学校(廃校)
 5年生より、住居移動の為転校。京都で一番古い小学校、
 生祥小学校(廃校)に通う。

 小学生は鉄道マニア。Oゲージより始まり、HOゲージの収集。
 初めてカメラを買ってもらい、汽車の写真を取りまくりました。

 母の仕事が裁縫等の為に、見よう見真似で裁縫をする。
 靴下のほころび等は電球を中に入れて修復。 学校でも家庭科
 は得意! 小学生の時に足踏みミシンが使えました。
 
 いつも女の子にいじめられました。(笑) 運動会ではいつもビリで
 一番うしろから、ニヤニヤ笑いながら走っていたそうです。(母曰く)


 中学時代

 中学校は、これまた京都で一番古い学校、柳池中学校(廃校)
 で、当時創立100年を迎えました。

 中学に入ると運動の為に、テニスクラブに所属。
 理由は? この時はテニスブームでした。現皇后様と天皇陛下が
 結婚されたのは、テニスがきっかけでした。

 でも、学校にはテニスコートが一つしかなくて、殆どテニスの練習が
 出来ずに毎日御所を一周(約4km)させられました。

 お陰で校内マラソン大会では2年間連続総合優勝しました。

 相変わらず鉄道好きで、あちこちの開通式等に行きました。
 

 鉄道マニアが昂じて旅行に出るようになりました。
 

 休みにはユースホステルを利用して、全国を回りました。
 

 大変便利な均一周遊券。
 

 

  十三参り の時。(嵐山にて)
  となりの女性は?
  いつも私をいじめた幼馴染の女。
  今でも同じ...現在の妻













 高校時代

 高校は、市立日吉が丘高校、元美術大学で美術科が有名。
 私は普通科ですが、美術クラブに所属。(ミーハーでした、笑)



 学生時代は、テニス、体操、
 サッカー、剣道、そして二輪レース
 と結構スポーツマンでした。













 仮装ではいつも、女性に扮装していました。
 (そんな趣味は無いですが...。)




 16歳から、二輪レースに参加。
 知る人ぞ知る、CR−93 です。 他に幻のレーサーCR−77も
 所有していました。





 初めての愛車、フェアレディ(1964年型)
 リアーフェンダーが少し凹んでいる。(姉が電柱と喧嘩)




 新幹線開通の時は、新幹線に乗るだけに東京まで行きました。

 


 スカイメート(20歳まで半額)を使って、あちこち飛び回りました。

 

 次は一度外国へ行ってみたい! でも夢のまた夢...
 アメリカ人の個人教授で英語の勉強を始めました。
 


 大学時代

 1996年、京都産業大学に入学。 この大学が新設されて、
 我々は2期生。校舎は一つしか無かった。

 ここでは、馬術クラブに入部、理由は? 顧問の先生がローマ
 オリンピックに出場された有名な先生であった事、そして自動車
 クラブの顧問も兼任、私も両方に所属、しかし馬術では馬の
 や厩舎の掃除ばかりで馬に乗せて貰えない為に、半年で退部
 馬に乗ったのは数回のみ。 でも有名な葵祭りでは盛装して
 参加しました。
 
 自動車クラブでは、いろいろな競技に参加、フィギア、ジムカーナ、
 ラリー、ダートトライアル等に参加。

 1967年、遊び疲れて仕事をしたくなった為に、休学して
 伯父が経営する宝飾店に入社。宝石職人の見習いを開始。
 初任給は、¥3,000也。

 1968年 11月 結婚 
 
1970年 2月 正美誕生。
 1971年 会社より宝石業者の視察団として、ヨーロッパ旅行
 に派遣される。 これが今後の私の人生を大きく変える大きな
 出来事となった。



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 1969年 鈴鹿6時間耐久レース、総合2位入賞
 ママは、大会全チームより選抜で一人だけ選出される、ヘルパー章を
 3年連続で受賞、私よりはるかに有名。




 こんな時代もありました。


 こんな車もありました。
 母の愛車、珍しいオートマティック サンルーフ

 愛のスカイライン GTR

 ケンとメリー のスカイラインGTR

 ジャガーEtype Mk.V V12


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 Vol−2

 
正美とアルフ

 廣坂家には5歳になる愛犬(マルチーズ)が居ました。それに
 友人であるペットショップよりの紹介で、以前より私が欲しがって
 いた、ピレニアンマウンテンドッグを要らないか?と打診があった。
 ピレニアンは、セントバーナードを真っ白にした白熊の様な犬で
 とても、優雅で優しい犬と聞いていました。ピレネー山脈で救助犬
 として活躍をしていたそうです。

 日本には、新聞社の社長が2頭入れただけで、長く繁殖をされ
 無かったのですが、6頭の子犬が誕生した為に、その中の一頭を
 譲り受けました。その犬の名が アルファンド オブ レークローバー
 長い名前なので、アルフと呼んでいました。両親はヨローパでの
 チャンピオンで大変良い血統です。アルフのその後JKCのグランド
 チャンピオンを獲得しました。

 当初は家の中で住んでいましたが、正美が生まれる頃には危険
 な為に屋外に出しました。しかし扉を開けると直ぐに家の中に
 侵入してきました。正美が少し大きく(1年位)なった時には、
 アルフももうすっかり正美に慣れて、決して悪さをする事は無く、
 乳母犬と化していました。 常に正美の傍にいて遊び相手に
 なっていました。何も分からない正美は尻尾を引っ張ったり、口を
 つねったりして遊びますが、アルフはク〜ンと泣きながらじっと耐えて
 いました。アルフが口を大きく開ければ正美の頭ごと中に入って
 しまう程の大きさです。

 正美を背中に乗せて散歩をしたり、冬にはソリで雪の中を
 引っ張ったりして本当に兄弟の様にいつも一緒に遊んでいました。

 

  いつもアルフと一緒 (3歳の頃)
  


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 初めての外国旅行 そして無謀な計画

 1971年春、会社社長より宝飾の業界よりヨーロッパの宝飾の
 視察旅行に参加する様に言われ、初めての海外旅行に出かける
 幸運に恵まれました。

 視察団は約20名で日本各地から参加されましたが、殆どが
 会社の社長や重役でした。私が一番若かった。

 1971年5月8〜21日まで、約2週間の旅。
 
 
 当時はヨーロッパ直行は殆ど無く、途中寄航してロンドンまで
 約30時間。



 イギリスより、オランダへ渡り汽車とバスで南下。
  

 見るもの聞くものすべて、珍しく大変興味深く、大きな
 カルチャーショックを受けました。

  


 イギリスでのゴールドスミス、ベルギーでのダイアモンドの取引場
 等、目を見張るものがありました。最後に訪問したイタリアの
 ヴァレンツアの国立の貴金属宝飾の学校には、大変大きな衝撃
 を覚えました。そして通訳を通して色々と質問をしました。

 自分もこんな所で勉強出来れば良いのに...と大変羨ましく
 思いながら帰路に着きました。

 帰りの機中、どうしてもあの学校の事が気になって仕方無く
 殆ど眠れなかった事。

 何とか、あの学校へ入れないか? 帰国後直ぐに京都のイタリア
 文化館を訪問し資料を集めるようにお願いしました。

 そして数日後、色々な情報が集まった。入学の資格は中卒以上
 で問題は無いが、やはりイタリア語が話せ、そして読み書きが
 出来ないと駄目とのこと。
 学校は3年間、そして上級クラスはあと2年の計5年間との事。

 自分にとって入学はとても難しい事、しかしどうしても行きたい。
 私は社長に相談しました。3年間長期休暇を下さい! 結果は
 やはりNO! 当然ですね。でも諦め切れない。何度もお願い
 社長は、そこまで思うのなら会社を辞めて行け、そして無事修業
 すれば改めて雇ってやる。との回答。 ありがとうございます!

 一つの大きな壁は突破、でも次の大きな問題は...妻。
 そして正美、これはたぶん無理だろうな? 機をみて恐る恐る
 話して見た。”どうせ止めたって無駄でしょ、あんたは一度言い
 だすと、絶対に止められないのだから...後は何とかするよ!
 好きな様にやってみたら?” よっしゃ、これから本格的に準備だ!

 そして、本気で留学を考え色々と検討を始める...。お金は?
 言葉? そして何時から? 考えれば考える程、無謀な計画だと
 いう事が分かってきた。大体貯金も無いくせに日本とイタリアでの
 両方の生活をどうするの? これは借金しかない、でも親、兄弟
 親戚すべてが反対の為に、ダメ! 言葉? 英語もろくろく話せ
 ないのに、とても短期間で教わる事は難しい。

 やはり、無理か? でも行きたい! 一ヶ月程悩んだ挙句に、
 留学は断念する事に決定。この間に色々と人に相談したり、
 自分なりに勉強をした。そして友人のお姉さんが丁度イタリアに
 住んでいた為に、色々と調査をして頂き又アドバイスを貰った。
 そして、後日このお姉さんが自らこの学校へ入学し、日本人と
 して始めての入学で、また主席で卒業し、帰国後有名な宝石
 デザイナーとして活躍される事になりました。

 私は留学は断念したものの諦めきれず、じゃ折角決心をしたの
 だから、もう一度海外へ行く事にしよう。そして今度は団体旅行
 では無く一人で行く。 これまで色々と調べたり、旅行者等に相談
 をした結果、貨客船だと大変安くてヨーロッパまで行けるとの情報
 を得た。船だと期間が長い為に言葉の勉強も出来る。
 しかし貨客船だと荷物の都合で予定が立たず、長期の停泊等
 もあり何時目的地に着くか分からない。
 
 そこで旅行者の人が、丁度来年3月にはイギリスの客船で、世界
 一周航路の途中で日本に寄航する客船があります。これに
 乗ってはどうですか? とのアドバイス。3月から55日間で香港、
 オーストラリアから、カナダそしてパナマ運河を通り大西洋を横断
 してイギリスへ行く船だそうだ。 また、その船が丁度来週に神戸に
 寄航するという事で停泊中は船内を見学する事も出来るという。
 これは見に行くしかない! そして神戸へ...

 真っ白な巨大な船体、聞かなくても人目で分かった。キャンベラ号
 45000トン、当時フランス、クイーンエリザベスU に次ぐ3番目
 の巨体、高さは25m まさに海に浮かぶビルの様だ。

 船内見学パスを貰っていた為に船内を見学、一目で惚れた。
 よしこれに決めよう! 出航は(来年)1972年3月12日。
 京都に帰り直ぐに予約、後はどうする? それはまた後で考える。

 次は金策...丁度その頃タイミング良く私が勉強中であった、
 貴金属鋳造の機械を新しく導入する会社を紹介され、その指導
 をする事となった。京都清水の有名な七宝の会社でした。

 私の馬鹿な夢を話すと、すごく感動して頂き、もし自分達の計画
 を軌道に乗せてくれたら全面的に協力をすると約束を貰いました。

 そして8月より半年間、二つの仕事を掛け持ちする事となった。
 勿論、伯父さんも了解の上。 朝8時から6時までは、通常に
 勤務、そしてそのあと直ぐに別の会社へ行き、社長と一緒に夕食
 をとり仕事を開始。1時頃まで仕事をする。休みは日曜のみ、
 これをほぼ半年間続けた。本職の給料が7万円夜勤は25万円
 も貰う事が出来ました。これを殆ど残す事が出来た。当時としては
 破格の給料でした。
 
 そして2月ほぼ予定通り、本職の方はお礼奉公、そして別口も
 何とか軌道にのり、社長は喜んで特別ボーナスとしてポンと、
 100万円を餞別として出してくれました。 当時では少し郊外で
 小さな家が、100万円で買えました。

 そして、家に100万円を置き、帰りの航空券(オープン)を持ち
 現金100万円を持って、あての無い放浪の旅に出る事になり
 ました。5月にイギリスまでは運んでくれますが、その後は全くの
 未定。向こうで働く事は出来ない為にお金が無くなったら帰国。
 また、期限は最大1年と決め、出発の時を向かえました。


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 Vol−3

 無謀な旅立ち

 旅立ちの日が近づくにつれ、どんどんと不安に駆られ、何度も
 中止をしようと決心がグラついた。当初の目的より大きく外れ、
 また海外には何も伝は無い、向こうへ行ってどうなるのだろう?
 電話連絡等も殆ど使用出来ない。(大変高額) また、妻や子
 は大丈夫だろうか? こんな事をして一体何になるのだろう?
 
 日に日に不安が募り一時はノイローゼになりそうだった。しかし
 すでに高価な船のチケット、そして帰りの航空券は購入し、
 キャンセルは出来ない。また周りの人達にも、大見得を切って
 行く事を宣言し、いまさら断念...とは言えない。
 もし、チケットの予約をしていなければ、確実に中止しただろう。

 3月に入り、いよいよ出発が近づき、本格的な準備を始める。
 衣類も冬から夏までのものを用意しなければならない。船では
 2ヶ月の間に、夏から冬までの気候があるそうだ。 また持ち込み
 の荷物は、私のクラス(ツーリスト)で一人60kgまで持ち込める。
 一番安いクラスです。

 そして、残った家族の為の色々な準備もしなければならない。
 幸いレース仲間達が皆応援をしてくれた為に、家の事は皆で
 面倒を見るから安心して行って来い! と言ってくれた。

 正美も2歳になり可愛い盛りとなった。そして出発間際、重大な
 事が発覚、妻が妊娠をしていたのだ。 予定は10月、これは
 大変だ、このまま行くわけには行かない丁度良い口実が出来た。
 計画を中止すると妻に言った。彼女は怒った、何を言ってるの? 
 皆の反対を押し切って自分で決心をした事なんやから、やり遂げ
 なさい! こっちは何とかするから...あんたは何時でも中途
 半端で終わってしまうから...と叱咤激励され、決行へ。

 3月11日 出発

 そして、いよいよ出発の時を向かえる。事前に兄弟、親戚等に
 挨拶に回る、もうこのまま帰って来れないかも知れない。
 皆に、何処行くの? 分かりません! 何時帰るの? 分かり
 ません!.... 気をつけてね! 

 一旦出てしまうと、殆ど連絡は取れない、勿論電話をする事は
 可能だが、3分で5千円位掛かるとの事、我々の連絡は手紙
 ハガキ等の郵便のみ、船からはいつでも郵便は出せる、勿論
 次に寄航してからの配達になる為にかなり遅れる。日本からも
 乗客宛に送れば受け取る事が出来る。

 11日神戸へ向かう、出発は12日だが前日に、荷物等を運び
 手続きを済まさなければならない。そしてそのまま船に泊まる事も
 出来るが、一旦家に帰り友人達とお別れパーティを持つ。
 そして12日再び神戸へ行き出航を向かえる。

  イギリス船籍 キャンベラ号 45000t 
  乗客1000  乗員2000名 (最大)



 出航の見送り(後ろの4人)、正美は別れが辛いので
 連れて来ない。

  

 そしていよいよ出航の時。
 船の別れは本当にロマンティックで、また悲しいものだ。
 紙テープが配られ、お互いにそれをしっかりと持ち、船が岸壁を
 ゆっくりと離れて行く...そしてテープが切れて何時までも手を
 振り続ける。もうこれで二度と会えない別れもあるだろう...
 多くの人が泣いている。船が動き出して約30分もの間お互い
 が見えている。誰一人として動こうとしない。そしてもう人の姿、
 建物が小さくなってくると、徐々にスピードを上げて行く。人々は
 夫々の船室へ戻る。私の部屋は4人部屋だが今は一人。

 

 さあ、いよいよ始まった...が、しかしこれから外国...では無く
 次の停泊は長崎。日本では、横浜、神戸、長崎と停泊する。
 乗客の中には横浜で一時下船して、船のオプションツアーで、
 日本を観光して再び長崎から乗船等する人も多い。
 船は大きい為に瀬戸内海は通らず太平洋を航海する。
 そして一路長崎へ...

 長崎では、朝に到着し夜には出航する。停泊はしない。船の
 出航は、夜11時59分というのが多い。12時を超えると停泊料
 が一日増える為だそうだ。しかしこんなに正確に出航できるの
 だろうか? と疑問に思った。

 長崎までは、日本人の乗員がいて色々と説明をしてくれる。
 しかし何を聞いて良いのか?が分からない。長崎を出ると、もう
 日本人の乗員は居なくなる、イギリス船籍の為上級船員は、
 殆どがイギリス人で、下級船員はインド人が殆どだ。勿論
 公用語は英語、一旦出航すると非常時以外は殆どアナウンスは
 無い。すべて書類でキャビン(客室)まで届けられる。乗船中は、
 2人のスチュワードが付く、キャビンスチュワードとテーブルスチュ
 ワードの二人だ。部屋の方の世話係りと食事係りという所だ。
 
 これは最後まで変らない為に、良いサービスを受けるためには、
 少しチップを励むのが良いと聞かされていた為に、通常は一週間
 単位で1US$(船では世界中の殆どの国の通貨が使用出来る
 が、US$が良いとされていた。1$=¥360)
 私は、長い乗船為に少し張り込んで週2$とした。やはりこれが
 功を奏して、航海中大変良いサービスを受ける事が出来た。

 長崎には朝に到着する。船の中で小ツアーが組まれる、希望者
 は申し込めば、すべての手配してくれる。レンタカー等の手配も
 すべて船の中で事前に出来る。また自分の車を船に積んで同行
 して、各寄港地で乗ることも出来るそうだ。金額は?たぶん高額
 でしょう! 

 私は折角なので、半日のバスツアーに参加した。一旦乗船すると
 パスポートは下船時まで保管され、国籍は船の住人となり、日本
 でも外国人扱いとなる。下記の様なパスが発行され自由に税関
 やイミグレーションをフリーパスで行き来出来る。買い物も免税と
 なる。

 バスでのツアーに参加して、長崎の名所を観光する。周りの人は
 すべて外国人の為異様な感じ。案内はすべて英語の為良く分
 からない。現地の日本人に人に案内を聞く。

 夕方には船に戻り、食事をとる。食事は朝、昼、夕食ともに
 複数のメニューが用意され、その中から好きなものを選ぶ事が
 出来る、すべてを注文しても良い。勿論食事は無料。

 今回は、神戸より乗船し船で結婚式を挙げたカップルが居た
 そうだ。友人や、親戚の列席者は、神戸から長崎まで行き、ここで
 下船、中には香港まで行く人もいた様だ。

 夕方、ターミナルより最後の電話を家にかけ別れを告げる。
 そして、夜の11:59の出航を観察、11時頃より遅い時間に
 拘わらず大勢の人が見送りに出て、別れのテープが一杯になる
 通常停泊時には3本のブリッジが船とターミナルに繋がれている。
 1時間前に1本が外され30分前にもう1本が外されて最後の
 1本だけとなる。この最後のブリッジのロープが外された時が船の
 出航となるそうだ。

 出航間近になると、駆け込んでくる乗客が多くいる。50分を
 過ぎてもまだ人が走って来る。乗り遅れる人は居ないのだろうか?
 11:59きっかりにロープが外され、ブリッジが閉鎖される。
 しかし、5、6人の人が乗り遅れ...どうするのだろう?
 次は香港、飛行機で行くしかないのか? 中には飛行機で次の
 寄港地まで行く人もいるようだ。

 しかし、この人達にはちゃんと救済の手がありました。船がゆっくりと
 岸壁を離れると、横から小さなタグボートがゆっくりと動く本船に
 横付けされる。 そして乗客がロープで船に登ってくる。大変
 面白い光景だ。この後何度も毎回この光景を見る事となった。

 いよいよ日本を出航し香港に向かう、これからは本当の一人旅
 殆ど何も分からず、部屋も同室者がまだ誰もいない。
 この時にはこれから起こる様々なトラブルを知る由も無かった。

 各港に停泊時には、パスが発行されパスポートの代わりになる。
 

 長崎を出航し東シナ海に入ると船の揺れも大きくなってきた。
 前後左右に揺れながら上下に動く、しかしこの船には最新の
 スタビライザーが装着されて揺れは少ないそうだ、また高級船室
 は上階に置かれ、私の部屋は水面より下で重心に近いために
 揺れは少ないとの事。

 明朝8時に朝食。食事はレストランでするが、一度に全員が
 入れない為に2部に分かれている。私は遅い組で9時からの食事
 となる。9時少し前にレストランに行くと、私の席に人が...。
 あれ? 席を間違ったかな? スチュワードに尋ねると今は8時
 貴方は9時ですよ。 時間を間違ったのか? でも私の時計は
 9時、そうかすでに時差があったのか? 何時時間が変更された
 の? 夜の12時です。 そうか夜に時差の調整があるのか。
 気を付けなければ...。

 そして一時間後に無事朝食を終え船の探索を開始、航行中
 は、前半分はファーストクラスの為、許可が無いと行く事は出来
 無い。従ってプールやレストラン等の施設はすべて複数で用意
 されている。唯一共同で使用できるのは、映画館のみである。
 およそ3日で新しい映画が上映される。

 船を一周しようとすると、歩くだけで一時間位かかる。全長は約
 250mで11階ある。慣れないと迷子になってしまう事もある。

 ぶらぶらと探索を続けていると、突然非常警報が鳴りだした。
 たぶん誤作動だと思ったが、皆が救命胴衣を着けて走っている。
 ほんとかな? 私は状況が良く分からないまま、救命胴衣は着
 けずにみんなの後を追い甲板に出る。廊下を走っていると、次々
 とうしろから、通路のドアが閉じられて行く。もし、逆に走ったら、
 前後の扉に挟まれて廊下に閉じ込められる。

 甲板に出て初めて避難訓練だと言う事が分かった。港を出て
 次の日には初めての人を対象に避難訓練が行われるそうな。
 そんな事聞いていない! でもこれはちゃんと書類で部屋に配ら
 れていた、英語の為読めなかった。 これからはしっかりと辞書を
 片手に読まないと...。

 避難訓練は、船のスピードを落として救命ボートまで下ろして
 行われる。タイタニックの事故以後、すべての客船は定員分の
 救命ボートを装備して、また避難訓練をしなければならないとの
 事だ。
 大型フェリー等には、乗った事はあるが、外国航路の客船では
 かなり勝手が違う、色々と勉強をしなければならないと痛感した。

 二日間の船旅の次は香港に停泊。

  Vol−4へ...