廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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  Vol−14

   1986年 第1回 オフロード 全日本選手権
  


 オフロード 全日本選手権 
 
 1/12世界選手権、そして全日本選手権が終了して、ほっと一息着く間も
 無く、10月にはオフロード全日本選手権が開催される。何故か気力も無く
 如何しようかと考えていた。正美は参加したいというし周りも期待をする。
 しかし私達はマシンも無いし、また練習場所も無い。 ママも折角の機会
 だから何とか出させてやれば? と言う。 結局周りに押されて参加しようと
 思った。

 そして、オフロードでは全くの素人である私は、先輩でもありレースも開催して
 いる、岡山のプラトピアの安田社長に相談をした。マシンは何が良いのかな?
 やはり定番では、KYOSHOのスコーピオン、オプティマかな? しかし2WD
 ならアソシのRC−10が良いと思うとの事。しかしRC−10だと6万円以上も
 するという。

 これはちょっと私達には無理かな? そしてもうあまり時間も無い為にまた
 地区予選に使った友人の車を借りようと思った。

 そんな時丁度タイミング良くヨコモ社長より連絡を貰った。先日のラスベガスでの
 世界選手権で、マイク・リーディ氏の目に止まったのが正美で、是非サポートを
 したい、そして全日本選手権には来日するとの事で、正美にマシンのサポート
 をして頂ける事となった。

 2WDでは、RC−10、そして4WDはドッグファイターを、鬼塚氏の組み立て
 セッティング済みで送って頂ける事となり、また当日にはメカニックも務めて貰える
 という事で、まさに渡りに船となった。

 そしてマシンは届いたが走行させる場所が無い。すると今度は、私達が以前
 住んでいた所(岩倉)の近くにショップと1/24のカーペットコースがオープンし
 1/24で練習やレースを開催していたが、そこのオーナーである岡山氏が、
 ショップに隣接する、田んぼを練習場として提供して頂く事となった。
 仲間達と簡単なコースを作り、オフロードの練習場として使用させて貰った。

 僅かな期間だったが、少しはオフロードというものが分かって来た。セッティング等
 は良く分からなかったが、1/12に比較すると車の反応が相当に鈍い。
 特にステリングを切っても反応しないとの正美の要望。サーボのスピードが遅いと
 いう、しかしサーボもあまり種類が無くスピードの速いものはトルクが無く、トルク
 負けをしてしまう。 

 そこで、考えたのが現在使用しているミニサーボを2個連結して使用する事
 だった。これによりスピードも速くなり、スペースも楽になった。


 オフロード全日本選手権 参加
 10月9日、またまた仲間達と車で関東の千葉へ向う、始めてのオフロードの
 ビッグレース参加である。
 今回の会場は双葉電子工業内に新しく作られた常設サーキットとなった。
 インフィールドには芝が植えられて大変綺麗なコースだった。 コース全体が
 傾斜をしているのだが、操縦台から見て前方が下がっている為に向こう側が
 少し見難い。斜面が反対側に傾斜していればもっと見易いのかな?と思った。

 正美はこの時はフタバのサポートを頂いていた為に、フタバスタッフの人達の
 助言や、また会社も少し案内して貰った。


 10月10日 練習日
 私自身は個人的には、あまりオフロードには興味が無かった為に、1/12の
 様な、緊張感は全く無かった。そしてヨコモの鬼塚氏の指導を受けながら、
 練習走行を開始した。 参加者も多く予選の組合せでの練習で、時間も
 3分位と大変短い為に殆ど何も分からなかった。

 そしてこの時始めて、あの巨匠マイク・リーディー氏を紹介され対面する事が
 出来た。勿論、私は雑誌等で凄い人だとは思ってはいたが、あまりにも何も
 知らなさ過ぎて何をしゃべって良いのかも分からず、ただお礼を言うだけ
 だった。 またこの後も会う機会も殆ど無いと思った。

 10月11日 予選日
 2WDクラスより予選が開始されたが天候が悪く、レースの途中から雨が降り
 始め、2WD1ラウンドの後半は雨中でのレースとなった。この為に一応2WD
 の1ラウンドは成立とされ、それ以後は明日の決勝日に予選2R、と準決勝
 そして決勝が行われる事となった。

 この時に走行したマシンはまさに泥団子で、もう触るのも嫌な感じだった。ハケ
 等で掃除しても追い付かない為に、メカを外して水道で丸洗いする事とした。

 私達の宿泊したホテルはコースの近くでオフイシャル推薦のホテルだったが、選手
 達が泥だらけで出入りし、また洗面所や風呂で車を洗う選手等が居たために、
 ホテルが大変に汚れてしまい、もう二度とラジコン関係者には部屋を提供しない
 とまで言わせる羽目となった。

 10月12日 決勝日
 何か分けの分からないままレースが進み? 今日一日で予選から決勝まで
 を行う事となった。総勢のべ230名の参加をさばくのは大変な事となった。

 まずは予選を2WDは1R、そして4WDを2R行い、上位32名が準決勝へと
 進む。正美は2WDでは幸運にも、トップタイムを出しTQとなり決勝へシード
 となった為に後が大変に楽となった。

 4WDは、ワンダードッグファイターは操縦性はかなり良かったが、重量が非常に
 重く、特に路面が雨の為に重くなり、これも災いしてスピードが全く伸びなくなり
 準決勝をクリアする事は出来ずに終わった。

 そして2WD決勝レースでは善戦するも、ミスでコースアウト等があり2位と
 なった。結果的には、TQ、そして2位というのは、初めてのオフロードレースと
 言う事を考慮すれば素晴らしい結果と思っても良いのだが、何故か、この
 レースには殆ど何も努力や苦労をしなかった為か、あまり大きな感激等は
 無く、むしろ1/12の余韻のほうが大きかった。

 もう、これでオフロードのレースは出ることも無いだろう。 ただ印象に残ったのは
 シュマッカーのCATだった。これは武田選手がレースに使用し、石原選手も
 デモ走行をした。まだテスト輸入で数台しか日本に入っていないとの事、石原
 氏が私にこの車を見せてくれて色々を説明をしてくれた。

 私は一目見て大きな衝撃を受けた。オフロードの事は良く分からないが、この
 車は従来のマシンとは全く違うシステムを持ち、私と同じ様なコンセプトを持って
 いる事は直ぐに感じ取れた。2mmピッチのベルトを使用した駆動の軽さ、
 前後幅の違うタイヤ、そして伸縮するユニバーサルジョイント、ビックリするほど
 切れる蛇角、このマシンは私のマニア心をくすぐるのには十分であった。
 これはレースで使用するのでは無く、色々と研究をしてみたいと思った。

 石原氏に幾ら位で販売されるのですか? そうね、たぶん7万円位では無い
 かな?  私...。

 こうして1986年も全日本選手権優勝と言う最高の結果を残し終了した。
 来年からはどうする? まだ分からない、これからじっくりと考えよう。 


 1986年 JMRCA オフロード 全日本選手権








 

 

 

 
































  

















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 世界選手権への再挑戦の決意。

 今年は大きなレースに3度も参加し、相当に疲れが出ていた。義兄の方の
 仕事も抜ける事が多く、同じ仕事仲間に迷惑をかける事も多かったが、皆
 大変良く応援、協力をしてくれて、日本一になった事を大変喜んでくれた。
 次は世界!..等と簡単に言ってくれるのだが...

 そして選手権が終わり、まだ平静に戻らないうちに、雑誌の取材依頼や 
 メーカーからのサポートの話を多く頂く事となった。その中でシュマッカーの輸入元
 である、ODSトレーディングの富田氏が直接京都の自宅へ来られて、CATと
 1/12のマシンを正美のテスト用として提供して頂く事となり、そしてCATを
 私の方で販売をしてみては? との提案を受けました。

 丁度その頃には、練習で使用させて貰っていたピータパンが、本格的なコース
 にしてオフロードレースを開催したいとの事ったので、じゃオフのレースを皆で
 やろうと言う事となり、11月より開始をした。

 それから間もなくして今度はHPIの渡辺氏が自宅へ来られて、来年のイギリス
 での世界選手権に我々のチームとして参加しないか?という話が出てきた。
 今の私には世界選手権に参加出来る状況では無いと断ったが、正美の事
 はすべてサポートをするとの事。

 HPIは、今年にアメリカにて設立したばかりで、まだまだ小さい会社だが、今は
 関口さんのチューンのモーターやバッテリーを中心にレース活動をしているとの事
 アメリカに在住の為アソシとも交流があり、またシュマッカーとも知り合いでも
 あり、車等のスポンサーの話はすべて自分たちがお膳立てをすると言う事。

 私は少し躊躇はしたが、現状は大変厳しいが今回は最大のチャンスかも
 知れない。 HPIがメインスポンサーとなり、ODSがシュマッカーのサポート、
 そして2WDではヨコモがアソシとのコンタクトを取ってくれる。そしてHPIの
 メンバーには、KYOSHOの小泉選手、高麗選手までもが繋がってくる。

 こんな最高の条件はもう二度と無いかも知れない。これは乗るしかないかな?
 借金を一杯抱えた私には無謀な話だったが、もう”毒食わば皿まで..”後は
 何とかなるだろう。

 よしこれからの8ヶ月、すべてを賭けてやってみよう! と新たな決心をした。
 超えなければならない障害がいっぱいあるが、一つずつ解決していこう。

 まずは練習。正美は勿論学生の為学校へ行かなければならない。普段の
 日は練習出来ない。その為にピーターパンの岡山氏に相談して、夜にコースを
 利用させて頂く事を依頼。快く了解して頂き、簡単な照明設備も設置して
 貰った。しかし私もこれ以上仕事を抜ける事が出来ない為に一緒に行く事は
 出来ない。

 そこで正美に一人で行かせる事を考えたが、家をはさんで学校、コースは全く
 正反対の方向で、市内の南の端から北の端まで移動しなければならない。
 車でも30分以上かかってしまう。
 これはバイクに乗せるしかない。丁度義父が乗っていたホンダスペーシーを
 使っても良いと言う事だったので、免許を取らせてこれで一人で行かせる事と
 した。

 しかし高校では免許を取る事は許可されていない。またバイクで学校へ行く
 事も勿論禁止されている。そうするとママが、大丈夫! 私が学校に掛け合う
 と言って、校長と直談判。 正美には大儀がありバイクに乗せます! しかし
 学校には一切迷惑を掛けず、もし何かの問題があってもすべて私達が責任を
 取ります! ママの迫力に、さすがの校長先生も、分かりました公認は出来
 ませんが何も聞かなかった事にします。但し学校への乗りつけだけはやめて近く
 の友人宅等に停めるようにと、そして担任等には校長から話をすると言って
 貰った。

 そして毎日学校から帰ると私が用意をした車等一式と充電したバッテリーを
 持ってコースへ通う。バッテリーがすべて使えば終了。これを殆ど毎日続けた。
 その間岡山氏は、ほぼ毎日営業が終わってからも正美の練習に付き合って
 くれたそうだ。

 そして私は、ママと一緒に昼間はやはり北の方にある義兄の仕事場に通い、
 バッグの製作の準備や、内職の受け渡しで市内を車で回ったりする仕事で
 時にはミシンを踏むことも...そして夜に店を明け、正美の車の修理や充電
 をして明日の練習の用意をする。

 義兄の仕事は、作業場が本家と離れている為に作業場の仕事は私達二人
 に殆ど任される様になって来た。世界選手権参加には、まず絶対に許可は
 貰えない。もし言えば必ず仕事を辞めろと言われる。その為に二週間私が
 居なくてもバレない様な体制を作ることに考えたた。皆大変協力的だった。

 そして正美の脅威の特訓が始まった。 まさに雨の日も風の日も雪の日も...
 学校が終わり家に帰り、簡単に食事を済ませて夕方にはバイクでコースへ
 行く、そして一人で走行をする、当初はバッテリーは10本位だったが、徐々に
 バッテリーの本数も増やし、およそ20本位を走行する、帰宅は夜中になる事も
 多かった、その為に疲れで学校では授業中に眠っている事も多かったそうな。

 しかし正美は周りの先生や友人に大変恵まれていた。皆が様々な所で応援し
 そして協力をしてくれた。

 週末には、1/12のレースや練習、1/24のレース、そして毎日のオフの特訓
 勿論RCを触らない日は一日も無い。 相手も居ない、目標も全く分からない
 まさに自分だけの自分との戦いの日々だったと思う。勿論私も大変だった。
 殆ど毎日、車を壊して帰ってくる。壊れなくてもそれなりの整備をしなければ
 ならない。

 たまには休めば良いのに...と思う事も多々あったが、正美は決して今日は
 練習を休むとは一度も言った事が無く、コース通いを続けた。

 そして、一ヶ月、三ヶ月、半年...と単調に時は過ぎて行った。勿論その間
 には、多くのローカルレースの参加等はあったが、日本のレベル、世界のレベル
 等は全くの未知の世界だった。

 正美は時々こんな練習で良いのか? と疑問を私に投げかけたが、私とて
 何も分からない。 とにかく自分達の出来る事を一生懸命に最大の努力を
 ば結果は必ずついて来る。 と信じる事しか出来無かった。


 雑誌でのインタビュー






      




 ピーターパンサーキットにて練習





 イベント等にも積極的に参加するようにした。






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