廣坂 物語
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−23
1/12世界選手権(オランダ)へ向って。
二つのリーディレースが終わり、いよいよ今年の本命である、1/12の世界
選手権に向っての準備の開始を始めた。
リーディレースでは、リーディ氏とも殆ど毎晩一緒に食事をして多くの話を聞く
事が出来た。勿論文三さんの通訳を通してだが...文三さんは本当に凄い
マネジャーだった。通常は通訳は、こちらが話した事を訳して話し、少し省略
されるのが普通だが、文三さんは2倍位になって話す。こんなに長く話たかな?
と思う程である。きっちりとお互い意思が伝わる様に、色々と付け加えて通訳を
してくれる。
昨年のオフロードの時は、樹下さんが素晴らしいサポートをして頂いたが、やはり
プロのマネージャーとは、本当に選手の力を倍増させる効果がある事を教えられ
た。お陰でリーディ氏とも本当に信頼出来る仲となった。この時に一月のリーディ
レースでの最初の正美とのテストの事を話してくれた。
これはレース前日に初めて正美とモーターのテストをした時の事。リーディ氏が
まず最初にこのモーターを使って走せてといって、あるモーターを渡してくれた。
そして走行させ、正美に感想を聞いた。正美はもう少しトップスピードがあった
方が良いと言った。じゃ次はもう少し速いモーターにしようと、別のモーターを渡し
てくれた。
そして走行。 どうだった? 正美は殆ど変らない、もう少し速いのが欲しいと
答えた。そして又別のモーターを搭載。今度は少し速くなりました。とテストが
続いていった。これは勿論私も覚えている。
この時は私は通常のテストだと思っていた。これがリーディ氏の正美のテスト
だったのだ。 通常ドライバーはモーターの神様とも思われている、リーディ氏が
これは少し速くなると言って渡されたら、殆どのドライバーは少し速くなったと
答える。しかし正美は、変らないと言った。実はこれは最初と同じモーター
だったのだ。変らなくて当然なのだ。
リーディー氏は正美はしっかりと見極めが出来、またその結果を遠慮なしに私に
言える事は素晴らしい。 そしてリーディ氏のテストに合格したそうだ。
今まで多くのドライバーに同様のテストをしたそうだが、この様に答えたドライバー
は非常に数少ないとの事だった。
そしてリーディ氏は、チームのシステム、ルールやマナー様々な事を教えてくれた
私達が知らない多くの事があった。この先この世界一のアソシチームの凄さを
思い知らされる事となる。
イギリスでのリーディレースでは、正美はリーディ氏のNO−1サポートとされた。
これが、どれだけ凄いものか? たぶん多くの選手達はわからないだろう。
通常ビッグレースではリーディ氏は直接手を下す選手は5名までと決めている。
その他は、モーターや、メンテ位のサポートである。
NO−1サポートとなると、殆ど付きっ切りでテストをする事となる。まずテスト用
のモーターから始まり、ドライバーの要求にあったセッティングを施していく。
そして他の選手のメンテ中でも正美が走行する時は必ず手を止めて走行を
見る、そして私にも意見を聞く。
スピードが速い、加速が良いとかのレベルでは無い、あのコーナーをもっと速く
走りたいとの要求が出てくる。リーディ氏は嬉しそうに、私にそんな要求をして
来ると話をして笑ってる。こんな要求をするドライバーは正美くらいだ...
そして要求に応えられると、正美も結果を出してくれる。本当に楽しい!と..
世界には大変多くのリーディサポートを受けているドライバーが居るが、参加
の選手は皆正美を羨望の目で見ていた。
またリーディ氏はいつも私に言っていた。世界中にいるドライバーは皆私の
子供だ。そして私はみんなの為に、レースを開催するのだと。そして今回の
レースでも、約50万円位を自ら負担しているそうだ。
そして次回の1/12世界選手権では正美は5名のトップサポートのメンバーに
ノミネートされているという。世界選手権では多くのアソシドライバーが参加する
最初はこの5名は少し有利な状態(モーター、バッテリー等)からスタート出来る
が皆ほぼ一直線のスタートとなる、そして練習を含めて、レースが進行する
うちに、選手の状況によりサポートが絞られて来る。
そして予選が終わりAメインに残れなかった選手は、もうレースは終了と同じ事
となってしまう。これ以後のサポートは殆ど受けられず、Aメインの選手の手助け
をしなければならない...等と言う事も知らされた。
アソシチームはアメリカ内でも非常に多くのドライバーがいるが、世界選手権の
参加資格を取るだけでも大変で、またチーム内での順位も非常に重要となる、
その為に、国内での選手権等でもチーム内でも非常に激しい戦いがある。
これがドライバーの技術の向上にもなっているとリーディは話してくれた。
そして世界選手権では、やはりチーム全体を見なければならない為に、正美
だけに力を集中する事は出来ないが、正美は十分に可能性を持っていると
信じている。と言ってくれた。 そしてオランダでの再会を誓ってお互いの国へ
帰った。
その後は1/12世界選手権に向っての準備が始まったが、会社では何を
すれば良いのか?また住居も決まらず。しばらくは中途半端な時期が続いた。
何時までもホテル住まいは出来ない、と何とか住居を決めないと...会社近く
の不動産屋を軒並みあたった。そして最終的には、2件の候補に絞った。
1件はマンションで2LDKで比較的綺麗なのだが、会社からは少し離れている
為に、バスでの通勤となる。もう一軒は、会社から100m位の所で、立地条件
は非常に良いが、古いアパートでアパートと言っても普通の家の2階部分を
アパートとして貸す様な所だ、部屋割り等は殆ど同じだが、こちらはかなり古い
建物となる。
同居予定の石川君は、やはり新しいマンションが良いという、私は会社に近い
方が良く、正美はどちらでも良いという。なかなか意見がまとまらなかったが、
もう時間を無駄にしたくない為に、近くのアパートに決める。もし石川君が嫌
なら別の所を自分で探せといって強引に決めてしまった。
石川君も自分一人ではでは家賃が払えない為に、アパートに妥協した。
そして3人の奇妙な共同生活が始まった。2階の為に、専用の階段があり、
玄関に小さな台所とトイレがある部屋(約6帖)が私の部屋、そしてとなりの
奥の部屋が正美の部屋、また表側が石川君の部屋とした。こには風呂は無い
しかし、50mの所に銭湯があり、ここへ通う事とした。
正美も石川君も私の部屋が入り口にある為にこの部屋を通過しないと自分の
部屋に行く事が出来ない。皆夫々狭い部屋が一部屋の割り当ての為に、
殆ど荷物を置く事等出来ず。生活に必要な最低限の荷物だけとなった。
正美の部屋は小さな押入れがあるが、家具等は殆ど何も無い、テレビも無い。
冷暖房器具も無い、小さなコタツ一つで、冬は部屋の温度が0度以下に
なる事もあった。
少し落ち着いた所で、1/12の世界選手権に向っての準備を始めた。正美は
営業部の為に受注や発送業務が通常の仕事となった、私はまだ車作り等は
出来ない為に、バッテリーのマッチド等を研究する事、そしてRC12Lの改良点
等や、パーツ等も自分なりに作ったりもした。
そして週末等には、京都にて倉庫を借りてカーペットコースを作っていた為に
ここへ通い、ママや光美と一緒に食事をする事とした。
また関東でも、いちむらサーキットや、新しく出来た川口サーキットにて練習を
続けた。川口サーキットでは、鬼塚氏と二人でメカニックをして、一日50パック
の走行に挑戦をした事もあった。 正美は、ほぼ8時間以上操縦台に
立ちっぱなしだった。
そして8月世界選手権参加の為に、正美と石川君は事前にアソシチームと
の合同練習の為に一足先にアメリカへ向った。私は今回は光美も参加
させたくて、光美と文三さんと共に12日に、オランダへ出発した。
1988 1/12世界選手権 オランダ
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