廣坂 物語
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−36
1990年
1986年 1/12全日本選手権を制して以来、昨年までレースにおいては
快進撃を続け、名実共に世界の頂点に上りつめる事が出来た。
全日本選手権、そして世界選手権の電動部門すべてのタイトルを獲得する
事となった。
ある意味では我々はもう大きな目標が無くなり、またここまで無我夢中
で進んできた事に疲れも感じ始めていた。そして周りの環境も変化する様に
なって来た。
社内でも、勝って当たり前...正美なら負ける事はないだろう...等という
空気が流れ、より大きな期待と重荷がかかって来た。
正美も営業部に所属している為に、通常の業務は他の社員と全く同じ様に
こなし、それに加えてレースをしなければならない。 練習等は勤務時間外の
早朝や深夜に行う事が多くあった。 また営業業務が多忙の為に、テスト等に
費やす時間も少なくなった。 勿論テスト等は優先して行う事は出来るのだが
その分正美の負担が大きくなる為に、私は正美を気遣い、テスト時間を短く
したり回数を減らす様にした。
正美は性格上、手を抜く事が出来ない為に、営業とレースとの二つの仕事を
人一倍こなしていた。海外レースの出発前日まで徹夜して出かける事も多く
あった。
この様な状態では、レースの結果どころか正美が潰れてしまうと私は危惧して
いた。そして私は何度も正美を営業から外すように提案したが、受け入れられ
無かった。
私はもうレースは止めようと正美に提案をしたが、正美は自分はレースはやり
たくは無いが、今レースを止めると会社が困るので何とか続けようといった。
そして色々な葛藤の中、レースを続行する事となったが、この様な状態では、
良い結果が出る訳は無く、その後、1/12プレワールド、世界選手権、
1/12全日本選手権、オフ全日本選手権と続いたが、世界選手権では、
2位、そしてオフの全日本選手権では、自分達の本命でもある4WDで屈辱
の2位となった。
私は結果だけを見れば、優勝2回、2位2回でそんなに悪くは無いのだが、
レースの内容や前後の状況等から、とても容認出来る内容では無かった。
そして、この時はっきりとレースからの撤退を自分自身で決めた。そして状況に
よっては、会社を辞めても良いと思った。
その為か? 今でもはっきりと分からないが、この年のレースでの記録そして
資料等はすべて処分をしたか、紛失し存在しない。
私達のレース史上最悪の年となった。
これまで私は、自分達のレースの結果を過大評価していた。 レースで勝てば
地位も名誉もそして財も得られると思っていた。しかし現実の世界はそんなに
甘いものでは無かった。多くの借金も一気に返済してしまえるのでは...?
等と考えていたが、全くの当て外れだった。
レース等では賞金は出る事も無く、収入等は通常の報酬以外には一切無く、
むしろ世界選手権等では多くの出費が必要な事もあった。
そしてレースに勝てば勝つほど、ファンも増えるが、アンチも多く現れる様になり
地方等では時々嫌がらせ等をされる事も出てきた。
この様な状況下で自分自身は初心も忘れ、現状の不満等をマネジャーで
私の師匠でもある文三さんやリーディ氏にも時折ぶちまけていた。
文三さんは、いつも海外レースではマネージャーとして我々と同行して頂き、
長い道中等、多くの話す機会があった。また時には家に招待されて、色々な
相談事等の話を聞いて貰った。
私の不満や不安に対して文三さんは、同意はするものの叱咤された。自分も
もう今は現役を去り、ボランティアの様な状態で仕事をしている。また英語の
指導や、色々な事のボランティアも行っている。現在の仕事等も何時辞めても
全く問題は無い。 しかし正美と出会って一緒にレースを始めてからは、正美の
本当の力、そして熱意を感じ本気で応援する気になった。
その為に自分も今会社での仕事を続けている。 と言われた。
パパの気持ちは大変良く分かるが、しかし今は正美はもう個人のものでは
無い、この業界、日本いや世界の宝だ。正美に憧れてRCを始めた子供達
も多くいる。 この子達は決して正美の裕福な生活や、良い実車等に憧れ
たのでは無く、正美の素晴らしいレースや、レースでの勇士に憧れて自分も
その様になりたいと思っているに違い無い。
待遇や金銭の事を考えるのは親だけである。 正美自身もそうだと思う。
多くの良いスポンサーの話を断ったのも正美の生き方だと思う。
パパも苦しいかも知れないけれど、子供達の夢を壊してはいけない。
自分も正美には出来る限りの応援をする。と諭された。
私は文三さんの話を聞き、今までの自分の考えを恥じた。そうだ私達の初心は
こうでは無かった。いつの間にか周囲にも翻弄されて、レース結果での報償等を
期待する様になってしまっていた。
また別の機会ではリーディ氏も同じ様な事を言った。そしてIFMARでも過去
何度か賞金の話も出たが、私自身はRCレースは純粋なスポーツと認識して
いる。もしこれにお金が絡んでくると、不純な事も起こる事があると反対をした。
チームアソシでも基本的に金銭で選手を獲得する事は無い。
そして、正美は本当に素晴らしいドライバーだ。ただ上手いとか速いという事
だけでは無く性格的にも態度も素晴らしい。チャンピオンを獲っても決して驕る
事も無く、一旦レースを離れると大変人懐っこく思いやりのある良い子だ。
いつもレース中でも私が仕事をしていると、うしろから疲れていないか?と肩を
揉んでくれる。私は多くの若いドライバーと接してきたが、正美の様な素直で
優しい子供を見た事が無い。
そして、選手達の間でもライバルであっても正美の悪い事を言うドライバーは
非常に少ない。
そして、この様な正美を育てたのは、貴方、パパですよ! こどもは一人では
育たない。 パパはいつも隠れて表に出る事も少ないけれど、自分や文三さん
をはじめ、見る人はしっかりと見ているよ。正美の栄冠はすべてパパのものです。
パパもメカニックとしての知名度も非常に高い。 他に世界のメカニックと言える
人を知っているか?
正美の為、いやRCファン皆の為に、もう少し頑張って続けて欲しい。
私も出来る限りの協力を惜しまない。
この二人のアドバイスに私はある意味目が覚めた。そういえばこの二人の
大先輩達は、夫々の世界で第一人者でありながら決して裕福とは思えない。
また、多くのボランティアも行っている。自分達の利益だけではなく、周りの多くの
人達の事も常に考えている。それ故に多くの人達から支持をされているのか?
私は自分の浅ましさを恥じた。今まで自分一人で頑張って来た様に自惚
れてきたが、良く考えると本当に多くの人に支えられてきた。
正美も、もう私一人の財産では無いのだ。 もう一度初心に帰り無欲となり
正美の為、皆の為に自分で出来る事を精一杯頑張って見よう!
今後は一切報酬等の事は考えない。借金等はいずれ無くなるだろう。と考え
二人に宣言して協力をお願いした。 開き直ってしまと大変気が楽になった。
勿論、これらのいきさつは正美は知らないが雰囲気で分かっただろう。 ママも
私は一切何も言っていないが、すべてを理解していた。
そして私の悲しい性? 気持ちがふっきれたら、もう来年のレースに向っていた。
1/12 プレワールド(シンガポール)
5月26〜27日シンガポールにて、1/12 プレワールドが開催。
会場は体育館。
会場にはカーペットがひかれて、特設サーキットとなる。
観客席がピットとなる。
コントロールタワーも観客席に...
チームアソシのクリス・ドーセック選手とショーン・アイランド選手。
コラーリーのオスカー・ヤンセン選手。 オランダより参加。
同じくコラーリーのユーゲン・ルーテンバッハ選手。ドイツより参加。
正美は相変わらず、タイヤ管理。
予選はスタッガー方式。
決勝は、グリッドでの一斉スタートとなる。
会場は空調が無い為に非常に暑く、選手達の苦情が殺到。扇風機は用意
されたが、8月の本戦ではさらに暑くなると言う事で、レース終了後には、再度
会場の検討が行われる事となった。
1/12 世界選手権 7月30日〜8月4日
シンガポールにて、会場が変更され開催された。
日本選手団 弟の光美も参加、日本人選手では2番目の16位。
決勝メンバーの10名
チャンピオンは、クリス・ドーセック選手。正美は2位となった。
チーム アソシエイテッドのメンバー
アソシの社長、ロジャー・カーティス氏とフィル・デイビス選手。
このレースで印象に残った事は、バンケットでのチャンピオンのスピーチにて、
クリス・ドーセック選手が、世界チャンピオンになった事より、正美に勝った事の
方が嬉しいと語った事だった。
また、決勝レース前に急遽シニアーレースをすると言う事になり、リーディ氏や
ノバックの社長等、昔のレーサー達のエキシビジョンレースが行われた。私も
このレースに参加する事となった。皆マシンは決勝レース前の選手のマシンを
使う為に選手達はヒヤヒヤものだった。 普段とは逆に選手達が助手やメカ
ニックとなった。 結果? ノバック社長が優勝、私は2位となった。
オフロード全日本選手権
アサカグランプリ
TVにも出演。
ナイトレースにも参加
オーバルレースも流行の兆しが...
欧米では流行の兆しが見え始めた、1/10レーシング(PRO−10)を日本
でも...と、イベント等を開催。
京都市のイベント、市バス祭りに参加。
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