廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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   Vol−53

 1993年 オフロード世界選手権
 

 今年の世界選手権には、前回(1991年)後にニューマシンの開発に取り
 掛かり、プロトタイプで参加する事となった。そしてライバルのシュマッカーも
 地元という事もあり、大変な力の入れようで、50名程の選手をスポンサー
 すると言う事だった。 

 そして私達も、多くの選手をサポートする様に会社からの指示があり、やはり
 50名位の選手をサポートする事となった。 販売されているマシンならともかく
 プロトタイプをスポンサーするのは大変な事である。まして海外でのレースと
 なるとすべてのパーツ等も事前に準備して送らなければならない。

 私自身は少数精鋭で臨んだ方が勝率は上がると思っていたが、会社の方針
 には従わなければならない。

 アソシエイテッドの考え方は、レースでは1位を取らなければ意味が無い。
 優勝さえすれば、2〜9位が他車でも勝利と考える。 しかしヨコモは優勝より
 決勝に多くの台数を残した方が良いとの考えの様に思えた。

 これはビッグレースで勝ち続けてきた”おごり”の様に思えた。優勝する事は
 さほど難しい事では無いと思っているのだろうか? 勿論私達は優勝する事
 しか考えていない。

 私はいつもリーディ氏と良く話をしていた事は、ビッグレースで一度でも良いから
 決勝10名をすべてチームで取りたい。もしそうなれば、決勝では何もしない。
 皆好きな様にレースしなさい! と言えるのだが...。 なんて話をしていた。


 そして、準備の為に早くからパーツ等も手配して本戦出発前に、最終テストの
 為現地へ行き、約一週間のテストをしてセッティングの確認、そしてマニュアル
 の製作等をする予定でイギリスへ向った。テストも順調に進んでいたが後半に
 なり問題が発生した。ニューマシンは、フロントダンパーの保護の為に、ショック
 タワーをダンパーの前に取り付ける事としたが、路面が硬くダンパーは保護するが
 ショックタワーが簡単に折れてしまう問題が発生した。

 このままでは、恐らくレースで多くの選手がクラッシュで破損してしまうだろう。
 すぐに対策として、少し形状変更と厚みを増やす様に指示をしたが時間が
 無い、これの製作はアメリカで、すぐに製作をして送っても間に合わない。

 もうレース出発まで、ほぼ一週間しかない。 そこで仕方無いので私が直接
 アメリカまで行き、そこで形状変更して製作してもらい、持ち帰る事とした。

 そしてイギリスより帰国し、翌日にはアメリカへ向い、そして3日間滞在して、
 無理を言って、新しいショックタワーを200枚徹夜状態で製作して貰った。

 それを持ち帰り、すぐに世界戦への準備をして2日後には、イギリスへ向った。
 一週間で地球一周をした様だ。

 我々はレース開始のほぼ一週間前に現地入りして、順次マシンをサポート
 選手に配布し、組み立てやセッティングのアドバイスをした。

 多くのサポート選手が、組み立て方やセッティングを聞く為に私の部屋を訪れる
 昼夜を問わず...まさに24時間営業といったところ。

 レースは2WDから始まる為に、4WDまではかなりの日数がある。 私達は、
 勿論4WDがメインの為に、2WDは殆どテスト等はしていない。 

 レースが開始されても、4WDしか参加しない(出来ない)選手も多く、4WDの
 セット等を聞きに来る選手も多い。


 レースが開始。2WDは予想通り、アソシ、ロッシの一騎打ちとなり、ブライアン
 選手が、8番手よりのスタートで、逆転してチャンピオンとなり、皆を驚かせた。
 正美は、殆ど2WDはテスト等もしていなかった為に、4位に終わった。

 そして、続く4WDクラス、こちらは色々と小さな問題はあったが、とりあえずは
 まずまずの状態でレースは進行する事が出来、苦戦はしたが、最終的には
 逆転でTQを取る事が出来た。 また、決勝Aメインには5台のプロトマシンを
 残す事が出来た。

 私にとって約一年以上にもわたるレースも、いよいよあと一日で終わる。
 そして夜、決勝に向ってマシンの整備をしていた時、急にめまいがして、体の力
 が抜けて動けなくなってしまった。 直ぐに正美の部屋へ電話をした。正美は
 びっくりして私の部屋へ飛んで来た。 どうしたの? 分からない体が思う
 ように動かない。 救急車をよぼうか? いや、ちょっと待って、大きな騒ぎに
 なってしまう。

 少し横になる...しばらくの間ベッドで横たわって休んでいた。その間正美は
 じっと私の横についていた。 そして突然、明日日本へ帰ろう! と言った。
 そしてマネージャーに、あす朝一番の飛行機で私と正美の二人分のチケット
 を手配して欲しいと言った。

 私は明日は大事な決勝で、これを棄権したら今までの苦労がすべて水の泡と
 なってしまう... しかし正美は、レースより命の方が大切だ、とにかく帰ろう!
 と言った。

 私は、車さえ出来れば私が居なくてもレースは出来る、とにかく車だけは完成
 させる。あとは皆が助けてくれるだろう。と言った。そしてもう少し休ませて欲しい
 それから、どの位の時間がたったのだろう? 眠ってしまった。目が覚めると正美
 がそばに居て、どう、大丈夫か? 少し楽になった。たぶんもう大丈夫だ。

 これから、何とかマシンを完成させる。正美も明日の準備をする様にといった。
 暫くは正美は私の仕事を見ていたが、ほぼ完成に近づいた為に、自分の部 
 に戻り準備を始めた。

 翌朝、私は殆ど眠れなく少し頭がふらついていたが何とか準備も出来、コース
 へ向う事が出来た。昨夜の事は人には言わない様にと口止めした。
 ほんの一部のクルーしか知らない。

 私は体が少し重く、敏感に動け無い為に、最小限の労力で動けるように
 試みた。スタートラインにマシンを置けば、一応私の仕事は終わり、あとは
 正美の仕事となる。

 正美は人知れず私を気遣ってくれた。そして決勝レースの開始。 第1ラウンド
 は危なげ無くトップゴール。 次で決めると言わんばかりに、正美は気合十分で
 スタート、しかし第1コーナーでコースアウト! 最下位まで落ちた。しかしその後
 の追い上げは物凄い気迫だった。次々に先行車を追い抜き、ついに2番手に、
 そしてトップを後ろから追いたてて、警告を取られる事も...そしてついにトップ
 に立ちそのままゴール。 最終ラウンドを待たずして優勝を決めてくれた。

 第2レース終了後、正美はもう休んでいいよ! 私はその後の事は殆ど覚えて
 いない。
























    

    








   













  





  
















    









    

    
    
    

      

    





    
    
    

    

    


















  

     

     





    

    

    




























    

    


    
    
    
    
    
    
    
    

    

    


 今回は特別な試みとして、決勝レース後にバッテリーの充放電のチェックを
 して、結果を公表する事が実施された。 (2WDのAメイン決勝のみ)
 これは、この頃バッテリーメーカーによる試作バッテリー等が選手権に使用
 されている、との噂が流れた為に、牽制の意味も兼ねて実施された模様。
 ただこれは最初で最後の試みとなった。







    




    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    

 

    








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