廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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   Vol−64

 
世界選手権 開催。



 いよいよEPでは日本では始めての開催となるオフロード世界選手権が開幕
 となった。 開催が決定してから約一年間、ここまで大変な道のりだった。
 私自身は、自国特に自分達のホームグランドでの開催には、あまり気乗りが
 しなかった。 世界選手権に関していえば、ホームの利点等は殆ど無いし、
 また開催までの準備や、運営の手配等を考えると、大変多くの仕事をしな
 ければならない。

 世界選手権のルールでは、開催時には、60%以上のコースを変更しなければ
 ならない、とされている。 しかし今回は、多くの他チームやメーカーからも開催
 についての、反対があった。 理由は、やはり正美のホームグランドである為に
 正美にとって有利になると言う事だった。

 そこで彼らが提案したのが、レース前2ヶ月間をコースを完全閉鎖する事
 だった。 谷田部アリーナは、当然営業コースである為に、2ヶ月間も営業を
 停止する事は大変な事だ。

 私はそこまでして、開催する事は無いと思ったが、会社としてはどうしても開催
 したいと言うことで、この条件を受け入れた。そして土もすべて入れ替え、レイ
 アウトも完全に変更する事となった。

 そして、これらの条件を受け入れる事として、今後開催される世界選手権では
 この条件で、2ヶ月間コースを閉鎖する。という事を条文化する事を協会は
 約束をした。 
(しかし、その後これを守られる事は無かった。)

 その為に、勿論我々はテストもする事は出来ずに、他のコースでテストをするが
 他にはインドアのコースが無い為に、全くテストにはならなかった。その為にわざ
 わざアメリカのインドアコースへテストに行く事もあった。

 レースが近づくにつれ、ますます仕事が増え、とてもレースの準備どころでは
 無かった。 海外選手のホテルの手配、追加やキャンセル、日にちの変更、また
 レンタカーの手配、ホテルと会場の送迎。 コースの設営、計測装置、また
 開会式の準備、バンケットパーティ等...

 また、多くの選手のサポートもしなければならず、パーツ等の手配、もう気が狂
 いそうだった。 もう二度と世界選手権の開催等はやるまい! と心に誓った。

 レース開催前日まで、殆どと言って良いほど正美のレースの準備等は出来て
 いなかった。

 そしてほぼ3日間程徹夜の状態で、レースが始まった。 私はコースの警備も
 含めて、期間中ずっとコースに滞在し。一度もホテルには帰らなかった。

 とにかく、今回は正美の成績ではなく、世界選手権を無事に成功させる事が
 私の使命と思っていた。 私は、レースが開始されるまでは、大会準備委員長
 として、皆の指揮を取ってきたが、レースが始まると、参加者である為に、役員
 にはなれず、コントロールタワーにも自由に出入りは出来なくなる。

 計測の集計ソフト等は私が作った物なので、トラブルが出た場合等は特別の
 許可を得て、修復をする事となった。

 そして、もう体力の限界の様な状態で、開会式が始まった。 今回の我々の
 唯一とも言うべき助けは、ママがコースサイドにテント張り、ドライバーのお母
 さんたちを集めて、期間中食べ物や飲み物等、皆に振舞ってくれた事だった。
 チーム員だけで無く、すべての選手や役員に、サービスした。またこれを見た
 多くの人々が、チームに関係なく、飲み物や色々なものを差し入れしてくれた。

 現場では、”ひろさか食堂”と呼ばれていた。
 


  

  

 

   

 

  

  

  

  

  


 

  

 




   

 

   

    

  

 

  

  

  

  

  


   

    

    

  

   






   

   

   

   

  



   

  

  





 

  




   




    










 

    








    

   

  





  


  正美の不振??

 自国ホームグランドでの世界選手権開催にて、本命と目され多くの人々の
 期待を背負っての大会だったが、過去に無かった程の不振に終わってしまった。

 これは、正美の不調と言うより、私自身の不調による結果だと言える。 開催
 までの準備等で、殆どレースに対する準備等も出来ず、またコース閉鎖の為に
 走行テストも出来ない状態だった。

 また日本開催と言う事で、多くの海外ドライバーもYZ−10を使用したいとの
 要望があり、SPLパーツ等をサポートする事となり、これらの準備をしなくては
 ならず、連日の徹夜で開催時には、もう殆ど体力的にも限界状態だった。

 2WD等は殆どマシンは、何も手を付けられない状態だった。 しかし正美は
 勿論、この様な状況は良く把握していて、何とか自力で頑張ると張りきって
 いた。 しかしやはり周囲の期待多さには、大きなプレッシャーを感じていた。

 2WDでは、やはり本家のアソしチーム、マークには及ばなかったが、なんとか
 2位に入る事が出来た。 正美自信のコンディションは悪くは無い。 


 4WDでは、どうしても優勝したい! と意気込んでいた。 何時でも大きな
 プレッシャーを感じていたが、今回はかつて無い程の重圧だった。

 そして予選が開始。 最初はやはり緊張もあり、走りも硬く小さなミスもあり
 タイムは良く無かったが、正美自身は問題は無い、何とかなりそう。 と言った。

 そして次のラウンド。レースが始まり少し時間に余裕も出てきた為に、私は
 始めて4WDの整備をした。 しかしこれが大きな間違いだった。

 レーススタート直後、急にマシンがストップ、車が進まない。私の整備ミスでデフ
 のプレートがずれてしまった。 この様なミスは練習でもした事が無い。私は正美
 ごめん!と謝った。 正美は怒ることは無く、大丈夫次は頑張るから...と
 言ってくれた。

 そして、マシン回収後直ぐに修理、慎重にデフを組みメンテ終了。 しかし私
 自身にも大変大きなプレッシャーが掛かっていた。その時は何かの妄想に
 とらわれていた様で、周囲事等は殆ど目に入らなかった様だ。

 そして次のラウンド、今度こそ! と思ったとたん、再び悪夢が...全く同じ
 状態となってリタイアしてしまった。 私は頭の中が真っ白になった。一体どうした
 のだろうか? あれだけ慎重に組み立てた筈なのに、同じ失敗をまた繰り返て
 しまった。 私は、もうレースを止めて帰りたくなった。 

 周りの皆も心配をして声を掛けてくれる。さすがの正美も言葉が無くなった
 のか無言。 ママが飲み物を持って、ちょっと一息を入れて落ち着いて! と
 励ましてくれた。

 これで、さらに正美には大きな負担を賭ける事となった。 さすがの正美もこの
 大きな不運から抜け出す事は出来なかった。 必死で頑張っている姿を私は
 自虐を持って見守った。

 一時は、Aメインすら逃すかも知れないと思われたが、何とか最後に意地を
 見せ、そして決勝で第1ラウンドでは、トップゴールをして見せてくれた。

 結果的には3位に終わったが、正美は、この大会が成功に終わり、海外選手
 達や役員からも多くの称賛を得られた事を、私の功績も大きいと褒めて
 喜んでくれた。


  

    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    




     

   

   

   



    

  

    

    

    







   






    



  レース前の、ハプニング

  公式練習中、一時台風の様な嵐となり、物凄い雨と風が...
 
 
テントで覆われたコースサイドにも水害。


 
水溜りの広場でダイビングをする選手も...


 
我らがオアシス、ひろさか食堂も、テントは風で飛ばされ、水浸し。
 しかし、皆の強力で翌日には復旧。




  幻の "夢のAメイン制覇”

 私はいつも、リーディ氏と一度で良いから世界選手権で、Aメイン全員チームで
 独占してみたい、と話していた。 リーディ氏も過去、全米選手権等では、9台
 を残した事はあるが、全員は無い。

 もし、この様になれは、決勝ではもう何もしないで、皆好きな様にやって下さい。
 ...と観賞してるかな?(笑)なんて話をしていた。

 今回は、まさにこれが実現したかも知れなかった。 Aメインには、8台のヨコモ
 そして、2台のKYOSHOが進出、この2台はディレック・フルタニ選手と
 グレッグ・ホダップ選手だったが、実はこの二人はヨコモのYZ−10を使用する
 事となっていた。

 そして、練習にはYZ−10を使用していたが、2WDが終わり4WDが開始
 される直前に、突然KYOSHOに変更してしまった。二人は契約ドライバー
 では無く、サポートドライバーの為に、変更は可能なのだが、二人とも有力な
 ドライバーの為に、私達はびっくりした。

 そして、結果は二人ともAメイン進出。 勿論 ”たられば” だが、もし彼らが
 最初の予定通りに、YZ−10を使用していれば、前代未聞のAメイン独占と
 なっていたかも知れない。






   Vol−65 へ つづく...