廣坂 物語 
 History of the Hirosaka family and Masami.


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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   Vol−71

 
ツーリングカー プレ 全日本選手権

 私と木村理事長とでツーリングカーの全日本選手権開催に向け、規定の
 詰めを進め、ようやく理事会で承認され、全日本選手権の開催に漕ぎ
 つける事が出来、前哨戦が行われる事となった。

 ルールに関しては、各メーカーより様々な意見が出され、なかなか決定
 出来なかったが、とりあえずは今年は現行のマシンがすべて参加出来る様に
 ボディ等の幅等も暫定ルールが採用された。

 しかし、本戦(11月)直前になり、新たにヨコモ排除とも言える特別ルールが
 理事会で決定される事となった。 (後述)








  
  

   



  

 

 

 

 













 
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   BPS 24時間耐久レース (予選)

 昨年に引き続き24時間耐久レースが開催される事となった。 我々は
 夏場は選手権が続く為に、耐久には昨年同様参加しない事となっていた。
 しかし、会社からの意向で急遽参加して欲しいとの事で、参加しなければ
 ならない事となった。

 しかし、このレースには参加の為の予選があるが私達は世界選手権がある
 為に参加は出来ない。その為い他のメンバーが予選に参加して、通過すれば
 私達が参加する事となった。

 ただ、レースは8月24日から、しかしその一週間前には、岐阜でオフロードの
 全日本選手権があり、また9月14日からは、1/12の全日本選手権が
 ある。 大変日程の厳しい中での参加決定となった。







  



  

  









 

  

  

  

  

  

  

  





  

  

  

  
  
  



 
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  オフロード 全日本選手権



   

   

   
 

  

  

  

  

  

  







 

 














   
   
   





   

   

    



   

   

   

  

   

 

   



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  BPS 24時間耐久レース  (詳細資料無し)




 8月24〜25日 千葉 ユニデンスピードウエイにて開催された。
 7月行われた予選を通過し、ヨコモでは、A、B、Cの3チームを参加させる事
 となった。 大変無謀な企画である。 

 先週まで世界選手権、そしてオフロード全日本選手権があり、全く準備等は
 何も手が付けられない状態であった。

 ヨコモのマシンは、振り分けタイプの為、耐久レースではバッテリー交換で大変
 不利となる。 その為にマシンの改造を考えていたが時間が無く、オフの
 全日本選手権が終わった週に手がける事としていた。

 全日本選手権が終了し、直ぐに帰京し改造に取り掛かるが、バッテリー搭載
 装置だけでは良い考えが浮かばない。 思考錯誤の結果全てを新設計と
 する事とした。 しかし時間が無い、月、火で試作を作り、水曜日にテスト、
 そして木、金で量産(3チーム分)、しかし時間が無い為にすべて私の手作りで
 作らなければならない。 いつもの事ながらギリギリの状態だ。

 火曜日何とか試作の一台が完成し、水曜日にテストにコースへ...今回は
 走行特性は、あまり重視しない。 ベースは勿論YR−4の為、540モーター
 のパワーでは殆ど問題は無いと考えた。 テストは始めて使用する、540の
 データ取り、及びバッテリー交換のテストを重視した。

 今回の規定では、バッテリーはパックタイプのみの為、バッテリーの搭載部分を
 改造して、右側片方に積む方法を採用した。この事で多少の左右のバランス
 は悪くなるが、駆動部は従来のままで低重心を保つ事が出来、操縦は安定
 する。

 そしてバッテリー交換を早くする為に、コネクターを無くし、乾電池の様な接触
 タイプとした。 これでバッテリーの実質的な交換は、3秒位に短縮する事が
 出来た。 しかしテスト中では、振動で時々接触不良を起す事があった。

 その為に、バッテリーの接点を押さえるスプリングを強くする事と接点をマシン
 側、そして全てのバッテリーの接点を純銀の板を採用する事とした。

 そしてその夜から3チーム分のバッテリーの改造、マシンの製作3台+パーツに
 取り掛かった。

 殆ど仕事場で寝泊りする様な状態で、何とか金曜日には準備が終了し、
 本戦を迎える事となった。

 ヨコモではドライバーは多いがメカニックは非常に少ない。チーム編成も大変
 難しい。 私はAチームを担当し、メンバーは、正美、原、鈴木のベスト
 メンバーそしてメカニックとしては、私の右腕の内田の5名となった。 私が
 現場を担当し、内田がバッテリー等の管理をする体制を取った。

 レースまで殆ど徹夜状態が続いていたが、レースは24時間もある為に途中で
 少し位の休憩が取れるだろうと思っていた。 これが大きな誤算であった。

 当日は午前中に予選、練習がありグリッドが決められる。24時間レースでの
 グリッド順など大きな意味は無いが、やはりレースである以上ポールは取り
 たい。 勿論タイムアタックはエースの正美。 パワーの無いマシンを操れば
 ピカイチだ。 また正美の大きな”特技”とも言える、バッテリー残量計を持って
 いる。 通常はピットで走行時間を測り、バッテリー交換の時期を指示する。

 我々も最初はその方法を取ろうと思ってテストをしていたが、安全を取って
 少し早めに交換をするのだが、正美はまだ走行出来ると言う、それから
 バッテリーの交換時期は正美に任せる事とした。 レースでは正美が、次の
 周で交換! と指示を出す特異なパターン。 これで他のチームより約2割
 位多く走行する事が可能となった。ピットストップの回数を大幅に減らす事が
 出来た。

 練習が開始され大きなミスがあった事に気がついた。当初はコースは右周り
 とされていた為に、バッテリーは右側から着脱する方式を取った。走行して来て
 そのままストップし、マシンを横向けてボディを外さず、横からバッテリーの着脱
 をする方式だった。 しかし本戦では、周りが逆になった為に、マシンを一度
 拾い上げて方向を変えてからバッテリーの交換をしなくてはならなくなった。

 これで少しのタイムロスをする事になる為に、私は正美にピットインをする際
 に、私の前でスピンターンをして方法を変える様に指示をした。勿論正美は
 毎回ピタリと方向を変えて私の前で停止した。 他のドライバーはこれは
 出来ない

 また、レース中夜間はライトをつけなくてはならない。 ボディの着脱も時間が
 かかる為に、ボディポストはセンターのアンテナの一本だけとして簡単にした。

 そして予選が始まるが、雨が降り出し雨中での予選となった。 その中正美
 はTQをたたき出しポールを獲得。 何とか良い滑り出しとなった。

 そしていよいよ24時間のスタートなったのだが、直前に雨中での予選の為に、
 サーボに水が入り、サーボが誤動作する事が分かった。しかしスタートまでに、
 交換する時間は無い。 レース中は天気は問題は無さそう。 正美は何とか
 操縦でごまかせると言うことでそのままスタートをする事となった。

 そしてスタート、まずは正美はスタート良く飛び出し順調にトップを走行する、
 サーボは? と尋ねると、少しづつ良くなってはいるが、まだかなり不調と言う。
 しかし見た目には不調は感じない。

 我々の作戦は、2時間毎にドライバーを交代する作戦だった。 そして少し
 づつ独走を広げ、2時間が経過、次は原選手に後退、そして原がスタート
 直後、車が真っ直ぐに走りません! とても操縦出来ないと、そこで再度正美
 がドライブ、少しづつ良くはなっているが、まだ不調と言う。 そのまま行ける所
 まで行け、と言うことで走行を継続。

 その後、約6時間近く走行、今度は鈴木選手に交替することにした。そして
 鈴木選手もまた直ぐに、不調を訴えた。 ここでまた正美の登場。 

 結局は、正美が走り続ける事となる、その間バッテリー交換は、私一人で
 行う、ここでも私の誤算が、バッテリーの交換後は次の交換まで約12〜3分
 位の間がある、この間に少し休息が出来ると思っていた。しかし現実には、
 走行中のマシンから目を離せない。 コースマーシャルはいない為にクラッシュ
 等があればチームで行かなければならない。 また何時トラブルが発生するか
 分からない為に、ピットに張りついていなければならず、トイレにも行けない
 状態であった。

 内田君は、少し離れたピットでバッテリーの管理をしている。彼はバッテリーに
 関してはエキスパートで、放電、充電を完璧に行う。ただ場所が少し離れて
 いる為にコミュニケーションも取り難い状況だった。

 そしてもう12時間位経ったのだろうか?私も単調なレースそして疲労、睡魔
 と戦っているが、意識も朦朧としてくる。 記憶もあまり無い。 正美を休ませ
 ないといけない。もう大丈夫だろう? 再度原選手に交替、今度は問題無く
 走行する、正美の快走で2位とはかなりのアドバンテージを持っているが、まだ
 まだ安心出来るリードでは無い。

 やはり原選手も正美程では無いが、かなりのハイペースで走行、2位との距離
 は詰まらない。 しかし2時間走行の予定だったが、1時間過ぎた所で、悲鳴
 が、手がつって操縦が出来ません! そこで今度は急遽鈴木選手に交替。
 しかし彼もやはり2時間は走行出来ない。ここでまた寝ていた正美を起こし
 走行開始。

 レースも後半に入り、何とかローテーションに持っていけるか? と思っていた
 矢先、思わぬトラブルが見舞った。 ベルトが切れてしまった。 そこでベルト
 交換、この間大きなタイムロスをした為に、大きなアドバンテージは消滅し
 2位のテクトロチームに逆転されてしまった。

 修理を終え、やはり正美で猛追を開始したが、なかなか差は詰まらない。
 残り時間を計算すると、追い着くのがやっとかな? という状況。もう正美で
 乗り切るしか無い。 必死の追い上げを見せどんどんと差を詰めていくが、
 かなり苦しい状況。 モーターは5個のみ支給されるが、皆はこれらを殆ど
 使い切ってしまうが、我々は後半までまだ一個しか使っていない。少しパワー
 が落ちてきた為に、ここで思い切ってモーター交換をした。やはり少しラップを
 あげる事ができた。

 いよいよ終盤に入りかなり追いついて来たと思った所、今度はテクトロチームが
 ピットイン...なかなか復帰しない。何かトラブルがあった様子。

 ついに我々が再度逆転、そして差を広げる、ある程度のアドバンテージも取れ
 やっと短い間隔でローテーションを組んだ。 正美で広げ、原、鈴木で維持と
 いう展開、ただやはり鈴木が少し遅い、彼は性格上自分がクラッシュでもしたら
 大変という事でかなり消極的になっている。

 我々は、勝利が見えてきた時、正美、原と相談し最後の勝利のゴールは浩
 にさせようと決めた。その為に、もうリタイヤしても勝利が出来るまで、リードが
 出来た時に交替させようと考えた。

 そして順調にリードを保ち、ゴール5分前、ほぼ5分位のリードを持ち、最後の
 ドライバー、浩にバトンタッチ。 もうリタイヤしても大丈夫、思い切って行け!
 そして、栄光のゴール。

 私は、その瞬間殆ど意識を失ってその場で寝てしまった。次に目が醒めた時
 には、表彰式も、後片付けも終わった後だった。

 もう二度と耐久は、やりたく無い!

 次は、1/12オンロード 全日本選手権 だ。



 
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1996年 1/10 全日本選手権 (PRO TEN)



  

  

  

  

  

  

  














   

   

   

      























   
   
   



   

   

   

   












   
   
   
   
   









 
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  JMRCA 第1回 ツーリングカー 全日本選手権

 初のツーリング全日本選手権が、各メーカーの同意によりようやく実現の運び
 となった、ここでも私の提案でスポーツクラスが新設された。これは後でもよく
 勘違いされたのだが、スポーツマンでは無く、スポーツである。 ドライバーを
 分けるのでは無く、あくまでマシンでの制約を設けて、一般のドライバーでも
 参加をしやすくする事を考えた。 アメリカ等でのストッククラスの感覚。

 そしてメーカーの関与を禁止してあくまでアマチュアドライバーのクラスとする。
 結構好評で多くのエントリーが見られた。

 ただ、我々にとっては大変大きな問題が起こった。 それはJMRCAの会合
 にて、規定でスポーツクラスでは、バッテリーはパックバッテリーのみとする規定
 が決定された。 我々には、パックバッテリーを搭載出来るマシンは無い。

 今回は第一回の為、すべてのメーカーのマシンが参加出来る様に、ボディ幅
 も暫定で200mmでも可能とした。しかしバッテリーに関しては、暫定ルール
 は採用されなかった。事実上のヨコモ外しと思った。

 我々は、エキスパートクラスでは問題は無いが、ユーザーが多いスポーツクラス
 には、提供出来るマシンは無い。

 そこでかなり期間は短いが、何とかスポーツクラスにも対応出来るマシンの開発
 を進める事となった。 通常では駆動系を上に上げてバッテリーを下に横向け
 に積む方法が一般的だったが、私は駆動系は上げたく無い。

 そこで思いついたのが、耐久レースで使用したマシンだった。皆は片側に重量
 がかかり、上手く走行出来ないのでは無いか? と悪評だったが、私は過去
 にもテストで片バッテリーは少しテストをした事もある為に、強引にこの方法を
 採用して、YR−4Uとして、新しいバージョンとする事とした。

 当然だが、周りの評判も悪く、スポーツクラスでは殆どの選手が使用を躊躇
 した。 我々は当初は煮詰まっている、YR−4を使用する予定だったが、
 ここでUを使用しなければ、このマシンは死んでしまうと考え、エキスパートで
 使用する事にした。

 しかし、まだ煮詰まっていないマシンでセッティングも決まらないなか、チーム
 メイトの不満も抱えての参戦となった。

 しかしチームは、皆私の意志を良く理解してくれ大変頑張ってくれた。 正美
 は珍しく不振であったが、それをカバーしてくれたのが原選手だった。

 彼はいつも自分の立場をよく理解し、常に打倒正美を狙っているが、決して
 抜け駆けするのでは無く、真正面がら向っていく。そしてスキあれば...と
 いつも狙っていた、それが功を奏し、初のチャンピオンとなった。

 そのお陰で、周囲やマニアの見る目が変り、YR−4Uは、受け入れられる様
 になり、その後多くのメーカーがバッテリーの片積みを採用する様になり、後
 には、この方法が定番となった。







  


  

  

  

  

  

  

   

   

 

 



 





 

 

  

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   










 



  

  

  

  







 

   

   



   













  

  

  

  





   

   









   Vol−72 へ つづく...