廣坂 物語
History of the Hirosaka family and Masami.
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−85
NORRCA オンロード全米選手権
ツーリング全日本選手権が終了。 今度はアメリカでの全米選手権に参加
の為、アメリカラスベガスに向う。
アメリカでもツーリングカーの人気が上がり、多くのレースが開催されている。
アメリカでは、ROARとNORRCAの二つの大きな協会があり、夫々に全米
選手権等が開催されている。
しかしROARは、アメリカとカナダの国籍のあるドライバーしか参加する事が
出来ない。 従って我々はNORRCAの選手権に参加する。
ラスベガスは、カジノの町である。 郊外の我々の宿泊するホテルにもカジノが
あり多くの客が楽しんでいる。
勿論、我々にはカジノを楽しむ余裕はない。
選手権が終了し、翌日には帰国。 次は谷田部アリーナでのオフロードの
全日本選手権。 これまでは幸運にもずっとオンロードだったが、ここで切り替え
て、オフロードとなる。 EP全カテゴリーをやる我々には大変負担が大きい。
オフロードは先日発売された、MX−4での参加となるが、世界選手権で使用
したプロトタイプとは、少し仕様が違う為に、新しいセッティングが必要となる。
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4WD決勝2ラウンドのハプニング。
4WD決勝、1ラウンドを独走でトップを取り、2ラウンドも快走を続け、この
まま優勝か? と思われた後半、なんとコースマーシャルに踏まれてマシンは
破損してしまった。 何とかごまかしてゴールはしたものの、順位は6位、大きく
後退してしまった。 接触したのは同じチームメイトだった。
勿論故意ではなかったが、チームメイトは半べそかいて正美に謝りに来た。
正美は、”心配するな、気にしなくても良いよ! 次の最終ラウンドで必ず
トップを取って優勝するから...”と慰めた。
マーシャルのミスは多々ある事で、私は91年のアメリカでの世界選手権の事
を思い出した。 この時は、クリフレットとの優勝争いで、最終ラウンドで決着
する展開で、正美は最終ラップまで、大きくリードして優勝か?と思われたが、
ゴールまであと20m位の所のジャンプで転倒! コースマーシャルが急いで
救助、しかし勢い余ってマシンを再び転倒させてしまった。その間にクリフが
ゴールし、優勝を逃した事があった。
私はマシンの心配をした。ショックタワー、アッパーデッキ等にかなりのダメージが
ある。幸いシャーシ無事な様子。 次の決勝までに再生しなければならない。
通常決勝のインターバルは1時間30分以上と決められているが、これはレース
のスタートから次のレースのスタートまでである。 その間にレース約10分、
そして終了後には車検等...で実際の作業時間は1時間弱である。
その為に私は常に、レースで何が起こっても1時間で修復出来る様に準備、
トレーニングをしている、一番時間がかかるメインシャーシの交換も45分以内
で出来る様に練習をしている。
世界選手権等では、Tカーは認められず。シャーシが破損しても、交換を
しなければならない。 昔はTカーを用意した事もあったが、現在はTカーは
用意しなくて、各ブロックを予め組み立てて用意をしている。
今回は、私はちょっと前例の無い壊れ方なので、ちょっとびっくりしたが、ここが
腕の見せ所、と張り切った。 マシンの修復はさほど難しくはないが、セットが
変わってしまうと上手く走行出来ない。レース前にテスト走行する事は出来
ない、ぶっつけ本番となる。 一つひとつ慎重にばらして、そして同じ様に組立
をする。 セッティングを変えないコツはバラす時に状態を良くみておく事だ。
そして、正美にはスタート前に一周もしくは二周して状態を確かめる様に指示
をした。
そして最後のラウンド、私の不安をよそに快走しトップゴールを決め優勝した。
このような状況下で、実力を発揮するのが”正美”である。
ハプニングの2ラウンド以後、正美は私には何も言わなかった。そしてレース
終了後、私に、車は良く走ったよ! と言ってくれた。
これで一応タイトル戦は一段落。 次はドイツでのKEILDTMに参加。
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ヨコモツーリングカー全日本選手権
1993年ヨコモ初のツーリングカ−を発売して以来、多くのメーカーが発売し
当初はビギナー向けの新しいカテゴリーとしての出発だったが、多くのメーカーが
独自にレースを開催しはじめた。
新しいカテゴリーの為、規定等は無く、夫々別々の規定で始まったが、私は
先の事を見据え、このままではいずれは選手権が開催される事になるのでは?
と考え、規格を統一しなければいけないと感じ、先陣を切って独自に規定を
設定し、当初はヨコモツーリングカー規定として、車両規格等を決めて、レース
を開始しました。
そして全国各地で地区大会を開き、年末には集大成として、全日本選手権
を開催してきました。
アメリカのROARや世界機構のIFMARにも、車両規定の統一等も呼びかけ
ようやく、全日本選手権の開催、そして世界選手権の開催予定に漕ぎつける
事が出来ました。
ヨコモ世界選手権も年々人気が上昇して、参加者も全国より限界に近い
300名もの選手が集まる様になりました。
このイベントは、あくまで一般ユーザーを対象として、ワークスメンバー等は参加
出来ず、またトップ10に入賞すると次回は選手権クラスには参加できなく
なる為に連覇はない。
また、ワークスや有名選手は招待選手として、ヨコモクラスとして参加、これは
ショー的なレースで観客を楽しませる企画を考えました。
これは変則なレース時間だが、誰にもレース時間を知らせずにスタートをする
そして1分を過ぎた所でレースタイムを発表する。 時間は3分〜15分の間
最初から山を張って飛ばす選手、また長時間を想定してゆっくりと走行する
選手等、観客を楽しませた。
Vol−86 へ つづく...