廣坂 物語


 廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。

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   Vol−63

 
世界選手権 開催決定。

 1995年 IFMAR オフロード世界選手権を日本(谷田部アリーナー)にて
 開催する事が、昨年のIFMARミーティングで、決定されました。

 世界選手権の開催は、協会やメーカーは開催する事が出来ず、クラブのみ
 が開催する事が出来る事なっている。

 正美のホームグランドである為に、多くのライバルメーカーからの反対もあったが
 IFMARの会長である、ジョン・グラント氏のたっての推薦もあり、また電動では
 日本では始めてである為に開催が決定した。

 その為に、急遽谷田部アリーナとしてのクラブを設立し、年初めより準備を
 開始した。勿論、谷田部アリーナのスタッフだけでは、運営はとても出来ない
 為に、JMRCAに応援して貰う事となった。これは勿論協会は最大の協力を
 しなければならないとルールにうたってある。

 開催1年前より、色々な準備のスケジュールの期限が決まっている。コースの
 案内や、スケジュール、ホテルの確保等、大変な仕事が一杯詰まっている。

 今までは参加するだけだったが、開催となると非常に大変な事と、感じた。
 JMRCAとも何度も会合を開いたが、全くらちがあかない。

 私は、レースの参加者(メカニック)である為に、役員にはなれない。その為に
 準備委員長として、開催までの期間に限定して役員として活動する事と
 なった。

 協会の会合では、いつもの事ながら何も決定出来ない。誰が何をするのか?
 業を煮やした私は、理事長にもうこんな事をしていたら、何も進まない。
 もうすべて私がやります。 任せて下さいと大見得を切った。

 つくば市の殆どのホテルをまわり、宿泊費の交渉をしたり、成田からつくば市
 及びコースの案内地図を作る為に、何度も往復をして標識等を確認した。

 案内等はすべて英訳して、海外の支部へ送らなければならない。また参加者
 のリストの整理や、果てはホテルの予約の管理までする羽目となった。

 勿論、この間も車の開発、そしてイベント参加等、通常の業務の山積して
 いる。

 私は大変な事を引き受けたと後悔したが、あとの祭り。もう2度と世界選手権
 の開催等は受けないと思った。

 そして、規定に従い、ウオームアップレースを開催する事となった。いわゆる
 プレワールドだが、これだけでは参加者が少なくなる為に、リーディレースと
 共催する事となった。このレースで色々と開催にあたっての、問題点やまた
 多くの役員の練習にもなる。




 95 リーディインターナショナル レース





   



 

 

 

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  


  



  

  

  

  

  




    

  



 



  




   

   

   

   

   

   


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 新しい提案
 
 少しRCカーの人気に陰りが出てきた様子で、新しいカテゴリーが必要だと
 思い、色々と試行錯誤し、新カテゴリーの挑戦を試みた。



   

   


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 ヨコモ ツーリングカー 選手権

 従来よりの世界選手権カテゴリーに加え、新たなカテゴリーとして、人気が
 出てきたツーリングカー。しかし各メーカーが参入を始めたが、各社夫々に
 独自の規定にてレースを始めた為に、このまま進行すれば、統一規格を作る
 事は難しいと考え、まずは統一規格を目指して、ヨコモツーリングカー規定を
 作成、そしてツーリングカー選手権として全国を回り、既成事実を作る為に、
 レース開催チームを結成し、全国行脚に出かけた。

 レース進行、アナウンスにはRCマガジンの山鼻氏、そしてまだ殆ど普及して
 いないAMBオートラップカウンターのプロモーションも兼ねて、世界選手権での
 計測スタッフも同行し、また広坂一家も総出で、北海道から九州までを車で
 まわった。
  
 最初の頃は参加者も多くは無かったが、回を増すごとに参加者も増え、多くの
 人がツーリングカーに参入するようになった。

 我々の一行も、”ヨコモ一座”と呼ばれ好評を得た。そして年末には、集大成
 として、ヨコモツーリングカー選手権を各地方のチャンピオンを招待して、谷田部
 アリーナにて開催する事となった。 そしてこれらの実績がJMRCAのツーリング
 カー規定の基となり、全日本選手権開催となり、またそのルールがIFMARの
 ツーリングカー世界選手権の規定、そして開催に繋がった。






  



  

  

  

  





   

   



   

  


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   Vol−64 へ つづく...