廣坂 物語
History of the Hirosaka family and Masami.
廣坂 正明 及び 正美 の生い立ち、歴史を記録します。
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Vol−75
1997年 オフロード世界選手権 2
我々にとっては、2年間の長い戦いが終わった。 今回は今までとは大きく
違う感激があった。 世界を制して10年間、オフロードではシュマッカー
そしてヨコモでは、スパードッグファイターをベースに改造を加え、世界に挑戦を
してきたが、やはり自分で一から設計製作をしたマシンで勝つのが夢だった。
その一環として1994年1/10オンロードで、YRX−10を製作し、まずは
第一段階を制覇、そして今回のオフロードの全面新設計で望む事となった。
ヨコモとしてオフロード4WDはレースのメイン種目である為に失敗は許され
ない。大きなプレッシャーと希望を持ちながらの長い戦いだった。
ヨコモにはレース開発要員としては私を含め3名しかいない。私が案を出し
それをスタッフが図面化し、パーツを製作する。 一つのパーツを製作するのに
大変長い時間がかかる。 そしてパーツが出来ればテスト、不都合があれば
再度見直し、これらの繰り返しだ。
そしてレースギリギリまで繰り返し本番に挑む、その為にチームメンバー等から
は多くの不満が出る。それはプロトマシンが入手出来るのは、レース真近に
ならないとテスト等が出来ないからで、また成績が出せないのは、それが理由
だという。 またバッテリー等もすべて私がメンバーにサポートするが、これも
不公平だという。
しかし私は勿論一因はあるが、レーサーとしては、この壁を乗り越えなければ
一流にはならないと常に言っていた。 正美は確かにテストを通じて誰よりも
多く、テストカーを走行させ、十分に慣れてレースを行うのは事実だが、2WD
はアソシ車を利用する為に、こちらでは皆と同じ条件でプロト等は、本当の
直前に渡される。 それでもそれなりの成績を出してきた。
また海外選手有力等は同じ様に直前の入手でも十分に成績を出してくる。
これらは、やはりドライバーの思考の違いだと考える。
日本人選手で唯一、原選手だけは違っていた。彼はいつも私に言っていた事
は、正美さんはチームでもトップドライバーで、全てにおいて一番のサポートを
受けるのは当然の事、僕は少しのハンディがあってもそれを乗り超えて正美さん
に勝ちたいと言っていた。 私は彼は必ず将来正美を追い抜く事が出来ると
思った。
苦節10年私達の家族にとっても大きな変換期を向える事となった。今までは
無我夢中でレースに勝つ事のみしか考え来なかった。9回もの世界戦優勝し
そして我々の大きな目標を達成した今、ふっと我に返り振り返ってみると、一体
今まではなんだったのだろう?
これだけの実績を残してきたが、何も残っていない。周りの評価もだんだんと
変化してきた。 レースには勝って当たりまえ、ほっておいても勝つだろう、
という空気。大きなショックを受けたのは、全日本選手権前に雑誌社の記者
からの言葉、正美が勝っても面白く無い、負けてくれれば大きなニュースとなり
ページ数を増やせる...冗談半分で言った言葉だと思うが、私には大きな
衝撃だった。
私達は大袈裟かも知れないが、命を賭けて戦っている。 多くのファンもいて
くれるが、同じだけアンチもいる事を感じていた。
また会社でもレース後に直ぐに対応出来るようにと、...優勝という広告、
ひどい時はキットのシールまで事前に製作してしまう。 これがどれだけの
プレッシャーとなるのか? 分かっていない。
また、経済的にも全く変らない、我々は純社員である為に、スポンサーから等
の報酬は受け取れない。また特別ボーナス等も何も無い、普通の社員である。
レースでは勿論出張費は出るがそれ以外は無い。世界選手権等では多くの
持ち出しとなる。毎年世界選手権費用として貯金をしなければならなかった。
以前から海外のチームから、多くの引き抜きの話があった。 ちょっとしたプロ
スポーツ選手並みの良い条件だった。世界選手権に皆が大変協力的なのは
これらの下心があったからだと思う。
正美は入社時の約束だが10年間は、在籍すると話をしていた。 そして
10年を目前に私は移籍を勧めた。 たった一年の契約でもレースに勝てなく
ても家の一軒位は建てられると...
しかし正美は首を縦には振らなかった。 ママが推せば変ったかも知れないが
ママは正美の考えを尊重するとの事で、私はこれ以上推す事は出来なかった。
しかし私も50歳になり体力的にも、また士気の衰えも感じ、今後は今までの
様には行かない事を感じていた。
バンケットでは、私達ファミリーは何時になく盛り上がった。そして翌日には、もう
過去となり、次の新潟での1/12の全日本選手権の作戦に入った。
ちなみにMX−4のネーミングは、Mは、まさあき、まさみ、ママの”M”そして
Xは、プロトを意味して、私が考えていたが、アメリカのチームメイトが名前は?
と尋ねたので、仮称だがMXが良いかな? と言ったらすぐにMX−4の
ステッカーを作ってくれた。 そしてそれがそのまま定着してしまった。
これまで私がネーミングしたのは、YRX−10 とMX−4のみだ。
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Vol−76 へ つづく...