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廣坂物語

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廣坂 物語 (番外編)
悲運のマシン MX−4 物語
2021年05月13日 更新
* MX−4 物語 Vol.−1 ← クリック
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私の40年以上にわたる、RCカーマシン開発の中で特に思い入れの
あるマシンは、1983年全日本選手権ではじめて表彰台に上った、
ALF−7、1994年優勝を宣言して臨んだ、ドイツでのYRX−10
そして、オフロード最後となったMX−4と、私自身の認識中では最後の
マシン MR4−TC2002 (YMP−005)となる。
この中での特に、MX−4は3年以上にわたり開発を続け、全くの新設計
で1997年の世界選手権に望み、TQ、優勝を果たし脚光を浴びましたが
その後様々な出来事や、不運に遭遇し大変残念な最期を向かえる事と
なった、悲運のマシンとなりました。
その様な事情で私にとっては、一番思い出深い、また自分の人生と重なる
部分もある様に感じられます。
このMX−4の歴史を私のRC人生の一部と捕らえ、誕生から引退までを
記録として残しておきたいと思います。
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* MX−4 物語 Vol.−2
MX−4 市販バージョンの発売





1997年8月 ようやくオフロード世界選手権が好成績を持って終わることが出来、
次は、MX−4の市販バージョンの開発をしなければならない。 しかし時代はすでに
ツーリングに向っている。 同時にツーリングのモデルチェンジにもとりかからなければ
ならない。1998年は世界戦のテスト大会としてオンンロード世界選手権時に
ノンタイトルだがツーリングのワールドカップが開催される事となった。
この世界戦帰国後すぐに、オンロード全日本選手権が新潟、続いて岐阜でオフロード
全日本選手権、ツーリング24時間耐久レース、ツーリング全日本選手権が川場、
1/10オンロード全日本選手権が新潟、そしてケイルDTMがドイツと、目白押し。
体が幾つあっても足らない。 今年もオン、オフ合わせて5種目のレースをこなさなければ
ならない。
MX−4等レース用のプロトタイプは、殆どが私の独断で設計、製作をする事が出来る。
これはまずレースに勝つ事が目的の為である。 しかし市販バージョンとなるとまず売れ
なくてはならない。そして耐久性や見た目や様々な要素が必要となる。
その為に、営業や製作そして資材等多くの意見を取り入れなければならない。
市販車を売り出すと我々はこれでレースに参加しなければならずポテンシャルを落とす
事は出来ない。
何度か会議を持ち、夫々の立場から意見を出し検討を進める。そして最後まで決められ
無かったのがバッテリーの搭載方法だ。 私はツーリング等でも4−2のセパレートが良いと
主張をしてきたが、これには反発が多くあった。多くのメーカーやユーザーは、セパレートは
3−3を採用しこれが定着しているという。そして4−2という変則的な搭載法は一般には
受け入れられないだろうという。
勿論そんな事は私は百も承知している。 しかし私の考えでは、4−2は大変大きな
メリットがある。そしてここだけは譲りたく無いと頑張ったが、多くの反対があり、結局は私の
主張は通らなかった。最大の妥協として、プロトはバッテリーのスロットは右に6セル、左に
2セルだったが、これを右5セル、左3セルにする事となった。
これは、3−3、そして2−4もどちらも選べる最良の方法だと思われたが、実はこれには
私は納得出来ない理由があった。 左に3セルを積むとメカのスペースが無くなり右側の
スペースがなくなり、バッテリーの前後位置の調整も少なくなる等、私の意に反する。
しかし市販品に関しては、私には絶対的な権限は無い。 妥協するしかない。
他にも色々と自分の趣旨と異なる部分があったがとにかく市販をする事が大事だと作業を
進め、発売に踏み切った。 この時点でプロトタイプに比べかなりポテンシャルを落としたと
思ったが、レース用はまたこれからこれをモディファイすれば良いと諦めた。
そして今度は、これをベースとしたツーリングを製作しなければならない。 今はもうオフロード
は下り坂となり、皆の目はツーリングに向っている。 我々もこちらを重視しなければならない。
ここからはツーリングの開発に全力を注ぐ事となる。 オフロードは次の世界選手権までは
大きな大会の予定は無い。全日本選手権レベルだとMX−4プロダクションモデルで十分に
戦えると思った。
かなりの時間を経てようやくMX−4の発売にこぎ着けた。 当初はかなり評判が良く売れ行き
も良かったが、私達が予想した程の売上は無かった。
もうすでにオフロード人気が終わったかに思えた。 日本ではレースはツーリングが多くなり
オフロードのレースはどんどんと少なくなって来た。
またアメリカでは、もともと4WDはあまり人気が無く、レースも選手権位で通常のレースは
2WDとトラックで行われている。
ヨーロッパでは4WDは人気はあるが、ヨコモではあまり強い販売網が無い。
3年をかけ開発を進め、自分では最良の結果を出せたと自負したが、これが販売に結び
つかない事に少しがっかりした。 何とか自分達でも宣伝をしようとしたが、レース以外では
ほとんどアピールする場は無く、またレースも殆どがツーリングとなっていった。
この時始めて私達の仕事は、レースに勝つ事では無く、車等が売れて会社の売上が上がる
様にしなければならない。と認識した。
そしてツーリングは、価格を下げ量産をする為に、樹脂成型を多用する様に指示があった。
元々MX−4は、多くのパーツをツーリングに共用出来る様にとの事で設計を進めてきた。
足回りや細かいパーツ等は特に大きな問題は無いが、メインシャーシを成型にしたいと言う。
これは非常に難しい、メインシャーシは今まではカーボンのNC加工の為に、テストも簡単で、
直ぐに変更する事が出来た。
これまでのレース用プロトタイプでは大変多くの材質や形状で製作し、テストを進めて来た。
しかし成型シャーシとなると、型の製作にも大変時間が掛かり、また設計のデーター作成
にも多くの時間が必要となる。我々には全くのデーターが無く目測で製作しなければならない。
ツーリングにとっては、メインシャーシは一番重要な位置づけとなる。 大失敗をする危険性を
持っている。 一度作ってしまうと簡単に変更出来ない。 そこで我々は危険を避けるために
まずはツーリングでは無く、ラリー車として発売する事とした。 そしてこれをベースとしてツーリング
に移行させる作戦とした。 ラリー車では、レースに使用しなくても問題は無い。
かなりの時間を要したが、何とかラリーの発売にこぎ着けた。 MR−4ラリーと名づけられ、
珍しく頭の”Y”が消え、”M”となった。このいきさつは私は知らない。
そしてツーリングとしてのテストも開始した。 ラリーは成型樹脂を多用しビギーナー向けとし
かなり安い価格で発売された。 我々はこれに部分的にアルミパーツ等を追加し、ツーリング
としてのテストを開始した。 テストを始めると予想以上に良く走り、樹脂の柔軟性がかなり
良いフィーリングで大変走行させやすい事が分かった。 そして早速レースにも参加する事が
出来る様になった。 シャーシの柔軟性とアッパーデッキを追加する事で、剛性を調整出来る
様にして、色々な路面に対応出来るようにした。
MR−4 TCとして、LRPレースにてデビューし、ワンツーフィニッシュとなり、皆を驚かせた。
ツーリングはタイミングも非常に良く、生産が追いつかない位の売れ行きとなった。
しかしこの影で殆ど出番が少なくなったMX−4に私はより深い愛着を感じる様になった。
この中で来年のオフロード世界選手権はフィンランドで開催される事となり、大きな不安
が襲って来た。 レースに参加出来るのだろうか・・・?








































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つづく...
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